障害者と外国人の共通点

いわゆる「外人さん」としても「障害者」としても生きたことのある私の「そっち側からの視点」です。


一昔前の日本では、見た目が外人だと、いきなり初対面の人が目をキラキラ輝かせながら、「どちらの方ですか?」とか「外人ですか?」とか「お父さんナニジン?」とよく尋ねたものだ。(両親共に面識がない方が、何故初対面の人の父親のことだけ聞きたいと思ったのかは分からない。)

そりゃぁもう、芸能人のような扱い。


最初こそ「外人」と思われても、周りと打ち解ければ、普通に仲間の日本人と同じになる。遠目で目立つ以外の差は少ない。


一昔前は、珍しくてジロジロ見る子供は多かった。それを面白く思い、ジロジロ見ている子の目を見て眉毛を上下に大きく動かして見ると、お母さんの脚の後ろに隠れ、チョコチョコ恐る恐る覗き見してくる子も多かった。


初めて見る見た目が違って聞いたことのない言葉を喋る人らしき何かと出会い、珍しくて興味はあるけど、どう接していいのか分からないのだろう。そして、恥ずかしいのか、直接声をかけて、「なんであなたは見た目が違うの?」とは聞かず、安全性を気にしながら観察し、少しずつ慣れて、徐々に打ち解けて仲間になっていく。


今や日本の主要都市で外人やハーフを見ただけでこのように接する人は珍しいだろう。もう、皆が見慣れているし、接し慣れているのだろう。


障害者はちょうど、一昔前の外人と日本人の間くらいの位置づけではないだろうか?


今まで車椅子利用者と触れ合う機会がなかった人が、自分達と同じ接し方でいいのか、失礼はないか、もっと手伝った方がいいのか…… 善意の元、色々手探りで接触しては、修正を加えて、少ない接触の機会で粗相のない振る舞いを見つけているとも考えられる。


私が今までいわゆる健常者だったことで、障害者の世界を知らない。障害者という扱いも受けたことがなかった。だから、今までと何一つ変わらない自分が、立っていようが、座っていようが全く何も変わらないと感じているのだろう。


でも、ある障害のある方が、「元々健常者だったというのは、凄い財産だ。僕達が一生かかっても築きえない健常者との人脈を持っている」と言ったのを聞いて驚いた。


そして、もっと長くこの世界で「障害者」として生きてきた人達は、私の知らないことを沢山教えてくれる。


ある意味、昔のアイヌと本土(本州)や琉球と本土(本州)と似ているのかもしれない。


昔は別々の国だった。でも、今や日本全国に先祖のルーツに関わらず、日本人として皆が生きている(と思う)。ある意味、一昔前の外人よりも普通に日本人なのが当たり前なのではないだろうか?(私も実は、こう書いておいて、言葉くらいでしか知らないので、歴史に関係なく日本人は日本人でしょ?と思っている。だって、元々は海が中国やロシア、朝鮮と陸続きだった頃に歩いて四方八方から移住してきた、雑多民族の集まりでしょ?記録の程度、記憶の違いだと思う。こうはいっても、ルーツを大事にしたい人はそれを大切にすることを肯定する。)


イメージとしては、今は日本全国で「障害者」という人種が今までの隔離から脱し、他の日本人に溶け込む過程という雰囲気なのかもしれない。


ナチスドイツの教訓で戦後一気に改心した国々よりも少し遅れて、「障害者」と社会的隔離を止めようと動き出した日本。まだ、バリアフリーや公平というのが感覚的に自然になるまで補助輪をつけて漕いでいる感じだろうか?


だから、もうめちゃくちゃ普通に皆が公平に平等な機会が与えられているところもあれば、ぶっちゃけ努力賞の部分もある。


これは、成長過程としては皆が通る道ではないだろうか?


すると、今後皆が成功も失敗も議論も向上も続けて、すっかりバリアフリーが溶け込んだ社会になっていくのではないだろうか?


このように書くことで、今は垣根に感じる溝が着々と埋まることを願う。


今を大切に生きよう!




ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。