【健忘録】 初抗がん剤❌taxi❌救い

そう、生まれて初めての外出の日。

〜背景〜

ここでは、詳細を省くが、頭痛から「効く頭痛止めください」くらいの気持ちで受診したら、画像で異常が見つかった😳。

当然、「その画像は取り違えで、本当に病気の人を見つけてあげないと、その人大変なことになっちゃうよ〜。病院で検査の取り違えなんて起きるんだ〜🤣歴史的瞬間に遭遇🤣どうやって友達にこの土産話を面白く話そうか」と異常な画像は誰か別の人のだろうなどという悠長な考えもつかの間。

検査入院したら、色々と異常が見つかった。

ということで、親が国内の賢医を見つけて、そこに行ったら、抗がん剤治療をすることとなった。

髪が抜け始めた頃に、ベッド周りが絨毯のようにショートにカットした髪の毛に埋もれ、お気に入りの枕も朝起きたらロングヘアの犬に変化するくらい、連日勢いよく私の髪の毛は抜けていった。

もう私の頭のフッサフサでとっても濃ゆい頭毛は、ツルツルテカテカな床をフッサフサな毛髪リッチな姿へと変貌させた。

詳細は別のエピソードで書くが、この時一回は血球減少を理由にリスケしたお見舞いも、無事に再設定できた。病棟が小児禁 & 家族以外のお見舞い禁だったんじゃないかと思うが、個室だったしOKをもらった。朝清掃員さんが来てくれた時に、お見舞いの話をワクワクと語ったら、入念に掃除ないと、といつもにも増してバッチリ丁寧に隅々(特にベッド周り)を掃除してくれた。せっかく、力を入れて病院のツルツルテカテカな床に戻してくれた場所は、友人達が来る頃には、再度私の髪の毛を強制的に重力によって育毛されて、フッサフサの絨毯と化していた。その状態で友人達は驚く様子なく、「元々、毛が濃すぎて眉毛抜いた方が良いくらいだから、大丈夫だよ🤣」とか笑いながら、短いお見舞い時間中に今までみたいにたわいない話に花を咲かせた。

この時、友人達からもらった黒いニット帽を、とってもとーっても大切に握りしめた。(このニット帽は、その後風呂の時以外には外さず、被り続けていた……洗う時は別なの被ってたんじゃないかなぁ……記憶がイマイチ😅)

〜背景完〜

え〜…… ここからが本題。

抗がん剤の第1クール(最初のセット)中の私は、外に出たら行きたい観光名所、食べに行きたいお店、実に詳細に色々観光ハンドブックに穴が空くほど読み返し、入念にどの順番でどこにどうやって行き、何をするかをプランニングしていた。(もはや生き甲斐🤣🤣🤣)

主治医が血球減少を理由に外出を断ろうとしたように記憶している。

口が達者な思春期の私は、いかに外出して気分転換をすることが必要で、医学的にも安全かつメリットがあることかをとくとくと語った。

それに説得されてか、忙しい中で時間を取られて困ったからか、はたまた若い禿頭の女児がキラキラとまん丸の瞳を輝かせながら、必死に色々引用しながら説得を試みる姿に心打たれてか…… 理由は何にせよ、外泊はダメだが、外出はOKという許可が出た。

1)移動は車。

2)人混みにはいかない。

3)食べ物は火通しがしっかりされている物のみ

覚えている範囲では、こんな注意を受けた。

まぁ、一ヶ月かそれ以上ぶりに病棟外に出た私は、貧血や歩行不足によって、いつもの底なしの体力という程ではなかった。

しかし、車椅子は母が念の為トランクには入れたんだったか(積むのすら私が拒んだか覚えていない)。結局、私はいくつもの寺や庭に嵐山周辺のあらゆる観光スポットに計画通り自立歩行で回った。

石段の階段も、石畳も、砂利も、至る所に自分の脚で歩いて行き、家族で目一杯私の観光目標を全て巡って満喫した。(元々アスリートの若者の筋肉と体力の貯金?)

せっかくだから、人力車にも乗って、写真を撮ってもらった。

病室に帰る前に夕食を伝統のある鰻屋さんで食べた。事前に時間指定で個室を予約し、事情を説明していた。(外食に、本当は許可おりてたか分からない…… ただ、伝統的かつ格式高いお店で、事情を言って個室を貸し切り、じっくり火通ししてもらっているなら、下手な家庭料理よりも感染リスクは低いくらいでしょ?)

中では、誰にも出くわすことなく、極上の(多分、特上の鰻重〜松、竹、梅〜とか名前がついていたんじゃないかな? 風情ある感じだったのは覚えている。大きいのは、私が「食べ切れないから」と小さいものをオーダーしかけた私に、母は「せっかくだから、一番いいやつ頼んだら? 残してもいいんだから」と、本当は一番頼みたいけど食べ切れるやつをと考えた私の背中を押してくれた。結局、一番いいやつを頼んでよかった😊)

病院食よりも食べ、残りはお持ち帰りとして(本来やらないけど?特別に?)ドギーバッグとしてお持ち帰りさせてもらった。

目一杯、自分の計画を実行しきった達成感、嵐山観光、家族との最高の時間、外での開放感、全てを満喫した帰りはtaxiで病院に向かった。

正直、便秘に困ってはいたが、便秘薬などをお願いするのは恥ずかしかった。(しょうがないので、看護師さんに伝えてもらっていたけれども)母をなにか上手い理由を言って説得し、ファイバーだけ一箱買ってもらった。(なんて言ったんだったかな?本当、昔から母を説得するのが大得意。玩具も、友人達が持っており、私だけ買ってもらえなければ、友人関係に影響するかもしれない。もしも、それが原因でイジメに発展したら、幼稚園生でイジメられた心労は、心の傷から将来自殺に発展するかもしれない。だから、この玩具を買うことが非常に大切だ!といったようなことを母に幼稚園生の私が言い、玩具を買ってもらった記憶はある😅 どこで、こういうことを覚えてくるんだか…… いつも、説得は得意な方だった🤣)

そして、このドラッグストアを後にして、病院に向かう時にとあるエピソードが起きた。(これこそが本題)

なにかの拍子に、

母が治るといったようなことを、温かくて明るく、軽い口調で言葉にした。

それに対して、私が「治らない病気だから」と口にした。

この時、私は夜で外も車内も暗いtaxiの中では、院内でもお風呂に入る時以外外さなかった真っ黒な友人からお見舞いプレゼントにもらったニット帽を外していた。

タクシーの運転手さんは、「そういう病気!」となにかを悟った。

この運転手さんが、ご自分の奥さんが乳がんで手術と抗がん剤治療をし、治らないと思っていたけれども、寛解して経過した時間について教えてくれた。

そして、この時、「お母さんが悲しむから、二度と治らないなんて言っちゃダメだよ。」といったことを親身かつ熱く言ってくれた。

私は、それから10年以上、この言葉を胸に「治ると信じて」希望と活力をこの日出会った恩人に感じていた。

ちょっと、走り書きになってしまった……

この運転手さんとのやり取りが、ある意味自分の人生を現在のものたらしめたことだろう。

当時、どれほどこの会話に勇気づけられたことか……

今を大切に生きよう!


人にも言葉にも、凄まじい力がある。

一瞬の出来事が、時には一人の人間の人生を左右する。

一時は色々抱いた感情は……この記事に……(ただ、十数年間前だけを向いて頑張り続けられたのは、この時の「治る」という一種の決意のようななにかのおかげもあるだろう。ここ数年の葛藤はあれど、十数年間前を向く手伝いになったこのエピソードは、良い意味で私のことを支えてくれたのだと今は思っている。Feb10,2024)


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