“好き”はいつだって、向こうから
こちらの、ノンフィクション小説を読んだ。今日は、このことについて思うところがあったので書いてみる。
ネタバレをするので、
中身を知りたくない方は
ここで記事を閉じてください。
また別の記事を
読みにきてください。
◆◆◆
角幡さんの本は、『極夜行前』以来、久しぶりであった。読みやすさももちろんありつつ、探検家の文章記録ということもあって、非日常を感じられるから僕はこの人の本を定期的に開きたくなる。
1年ほどまえに購入したはいいものの、ほかに読みたい本があったのか、未読のままKindleのなかで眠っていた。「じゃあなぜ買ったのか」とじぶんにツッコミを入れつつも、このたびやっとダウンロードして読むことにした。
最初は“雪男”というあまりに現実ばなれした生物にたいして、僕は当然、著者でさえその存在じたいに懐疑的だったのだけれど。周囲の意見を聞いてまわるうちに、「結局、雪男はいるの?いないの?」と徐々に本気になっていくさまが興味深くて、僕もどんどん引き込まれていった。
『極夜行』などのほかの作品とくらべると、目指す目的(雪男と会う)が曖昧すぎて、どうしても内容が途中で間延びしている印象は否めない。しかし、だれもが期待するその結末が、「雪男には会えなかった」のだから仕方がないとは思う。
「なんだ。会えないのか。」
だが、じゃあ、なぜだ。
この本のタイトルが、『雪男は向こうからやって来た』というのは嘘ではないか。
本書には、こうある。長いが、引用して紹介したい。
◆◆◆
“好き”は、いつだってそうだとおもう。
僕の場合は、noteがとくにそう。初めから文章を書くことが好きだったわけではない。ましてや、こんなにつづけられるだなんて想像すらしていなかった。
なによりも関心がある“京都”についてや、当時フラれた彼女についてのことなどを書いたりしていたら、いつしか“フォロワー500人”という目に見える大きな目標ができていた。そうしたら、いつのまにかnoteにたいして愛着がわいて、いまとなってはもう放置できない大切な生活の相棒となった。
だから、みずから“好きを探すこと”にあまり意味はないと感じている。好きは向こうからやって来る。
そのためにも、今年はどんどん新しいことに挑戦する年にしていきたい。
僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。