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積み重ねてきたものを壊して、また積み重ねていくということ

noteを日々、運営している。運営っていうけどそれほどたいそうなことをしているのかい、と言われたとしたら、記事を書いてたまにプロフィールに手を入れるぐらいです、と卑屈になるのだがそれでもいい。

もはやここ数年、noteのために生きているのか、生きているからnoteを書くのか、手段と目的の境界がかぎりなく曖昧になってきている。

ただ、つらいこともある。いや、つらいというと大袈裟だけれど、フォロワーが減ったときはやはり気にする。時間をかけて書いた渾身の記事に、思っていたよりもスキがつかない日はやっぱり落ち込む。

ただ逆にいえば、だからこそ、メリハリがついて楽しいのかもしれない。毎記事にかならず一定数のスキがついて、決まった時間になれば一定数だけフォロワーが増えるようでは、「もっとよくしよう」とか考える必要がなくなってくる。そんなnoteはきっと楽しくないだろう。

そのかたわらで、総記事数だけは、じぶんで消さないかぎりは永遠に増え続けている。まさに、「記事を積み重ねていく」ということになる。見てみると、どうやら僕は、これまでに670記事をここに積み重ねてきたらしい。

よく続けているなぁ、とじぶんで感心しているときに、ふとこれまでの僕の経歴が思いうかんだ。

「人生で、ほかに継続していることってなんだろうか?」

たとえば読書は、自信をもって「積み重ねている」と言えるものだ。本は1冊だけ読んで満足してもあまり意味がない。

だからというわけではないのだけれど、早く多く読むというより、楽しく長く読み続けることを習慣にしている。よく小学校などでは、「朝の読書」みたいに決められた時間で本を読ませるやり方がある。そうやって、僕も初めは周りの大人たちから影響を与えられながら、いまの読書習慣があるのだよな、と。

京都の勉強だったり、早寝早起きだったりと、継続して人生に積み重ねているものはほかにもいくつか思いつく。

ただ、仕事については、ちょっとだけ違和感のようなものがあった。

とくに、いま僕は図書館で働いている。司書の資格も自力でとった。だけど、これから転職をしてこの図書館を離れることになったら、これまでの1年ちょっとで積み重ねてきたものはどこかへ消えてなくなってしまうのだろうか、と不安になった。

そこまで考えたところで、首をよこに降ってみる。なぜなら、僕は、仕事でなくても図書館へは利用者として足を運び続けるのだろうし、将来子どもと一緒に図書館へ行ったとして、いいところや悪いところなどを元司書として教えてあげられる自信がある。これまでの知識や経験は、ちゃんと僕のからだに生きている。

これからも長く続く人生のなかで、積み重ねてきたものを一旦、壊したくなるときがあるかもしれない。

それでもまた、何度だって積み重ねていけるのが人生だと思う。たとえ、壊してゼロになっても、案外、新しいことを始めるのには平地のほうが建てやすいことだってある。

僕はそうやって、人生のいたるところでひとつひとつ石を積み重ねていくかのように、ハマっては飽きてを繰り返していくのだと思う。

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