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【映画評】 ジャン=クロード・ルソー監督作品についての覚書

本稿はフランスの映画監督ジャン=クロード・ルソー(Jean-Claude Rousseau、1950〜)についてのメモを元にした覚書です。
すでに彼のフィルムとわたしの思考とが溶け合い、フィルム的他者性と私性の境界が明確でないことを予めお許し願います。

2014年11月6日の同志社大学寒梅館ハーディーホール、《ジャン=クロード・ルソー監督レトロスペクティブ》上映を参考にさせていただきました。


『Keep in touch』25分(1987年)

スーパー8で撮られているが、2000年に16mmにブローアップされている。
映画の構成要素とはなにか。それは映像という元素。予めそこに在り、人間の恣意とは離れたところに既に存在するのであり、たとえ事後的に他のなにかと関係づけられることがあるとしても、確固としてそこに存在する。

だが、すべての映像が元素となりうるのか。

元素の一つがフレーム(その内部、外部も含めて、フレームとはそれら総体のことなのかもしれない)。
ニューヨークのとあるアパートの一室というフレーム。そこにテーブルが在り、ポルノ雑誌が在り、消されたランプが在るというフレーム。男(作家のルソーだろう)はテーブルランプを点灯させ、机上の用紙に文字を書くというフレーム。

フレームにより世界を記述するというのではない。フレームは既に存在するのであり、フレームを配置することで、世界がわたしたちを捕まえるのである。
フレームは世界を語りはしない。世界は既に語られているのであり、そこにフレームが在るにすぎない。
フレームは不変である。それは画家の作業と似ており、文学と異なる。文学は世界を捕まえるが、画家は世界に捕られる。映像というフレームも見たものに捕まえられる。そこには世界との正しい出会いがあり、正しい出会いのみが正しい映像である。ゴダールの定式「これは正しいイマージュではない、ただイマージュがあるだけだ(Ce n’est pas une image juste, c’est juste une image.)」との対照、あるいは2人の定式は整合的。


『TROIS FOIS RIEN』78分(2006年)

パリのカフェ、パリからミラノ、ミラノからヴェネチアへの旅程が語られる。だが、ヴェネチアは登場しない。移動ということが重要である。

2つのパートで構成される。
l'aller(往路)とle retour(帰路)、そしてlecture(読むこと)の表示。

l'allerとle retourは時間の推移ではなく、フレームが占有す固有の時間の移動である。
l'allerのフレームが占有する時間とは、湖水地方の湖の青やHotel Azzurro(この中に、すでに青がある)の室内であり、le retourのフレームが占有する時間はアルプスの氷河の白。これら対となる時間はcontretemps(不時の出来事、抗・時間)である。

北イタリア湖水地方のHotel Azzurroの室内。
部屋の壁を背景に青年の姿。カメラの背後の声が視線について語る。それはフレーム内の青年に対する演技指導のようでもあり、可能性としてのナラティブのようでもある。マルグリッド・デュラス『Le Camion』におけるメタ・ナラティヴを想起させる。それは音声と映像の同時性ではなく、フレームに触れる音声としてある。「camion」はトラックのことだが、デュラス作品のタイトル『Le Camion』は、言葉(ナラティブ)の移動という意味を有している。


『Un autre jour』2分30秒(2014年)

海辺に置かれたデッキチェアーに腰掛ける老夫婦を背後から撮った4分の短編『Un jour』(2011年)がある。タイトルから推察して、『Un autre jour』は、『Un jour』と対をなす後日の『un jour』なのだろう。『TROIS FOIS RIEN』同様、image+son 映像と音との出会いについての考察のようにも思える。
この場合の「+」という二者の接続。それはデジタルテクノロジーである映像と音とのシンクロ(同時性)ではなく、映像と音が触れる瞬間という同時性である。スーパー8(同録ができない)で撮られた『Keep in touch』同様、音と映像との事後の出会い・触れるという感動、「出会うことのないもの」の「不意の出会い」という奇跡のようなパラドックスである。

『Un jour』(2011)全編(4分)


ロベール・ブレッソン作品について論じたこともあるジャン=クロード・ルソー。彼を語るには、ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』のようにアフォリズムが相応しい。
以下、アフォリズム風な記述である。

*)人気のない映像であっても、雪上の足跡は人の気配を感じさせる。

*)音は同時にあるのではない。そして正しいやり方で起きる。
image+son。映像と音は触れ合うことで厳密な固まりを成し分離できなくなる。
撮影の数ヶ月後になってから音と出会うこともある。

*)七里圭監督は、ジャン=クロード・ルソーの音が理想だと語った。

*)ルソーの作品のすべてが劇映画である。だが、一般の劇映画と違いがある。最初に物語があるのではなく、物語は常に後からやってくる。

*)イメージするのはイマージュであり、イマジネーションではない。イマジネーションはイメージを見ることを積極的に妨げる。

*)フレームがあってわたし(ルソーのこと)を把握する。それから他のイメージと出会うこともできる。物語はその後に把握する。

*)raccorder(ラコルデ・接続させる)のではなくaccorder(アコルデ・容認する)のである。そしてs'accorder(サコルデ・繋がる)ことでもある。

*)raccorder(接続させる)は映像が見えなくなる。ルソーの映画作法には〝r〟の除去と動詞の受容性がある。

*)登場人物が重要なのではない。あるのはカメラだ。人物は作品のraison(存在)におけるものであり、そしてintime(内密な)ものである。

*)作品にたどり着くには口実が必要である。それは欲望、あるいは欠陥の経験である。

*)ルソーの作品はcinéma expérimental(実験映画)と呼ばれているが、expérimentation(実験)ではなく、expérience(経験)が重要なのだ。

*)ルソーの作品は何もしない。
見せる映画ではなく、offrir(差し出す、提供する)映画である。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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