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【映画評】 橋口亮輔『恋人たち』 希望であり絶望でもある《救済》

タイトルから甘美な恋愛映画を想像してしまうのだが、橋口亮輔『恋人たち』はそうではない。しかし、『恋人たち』というタイトルが裏切るということではない。そうではなく、甘美である期待を嬉しく裏切ってくれた映画である。これは紛れもなく恋人たちの映画であり、しかも甘美さを伴わない、「恋人たち」の残酷と隣り合わせの映画である。

この場合の「恋人たち」とは、〈対〉という複数とともに、〈単独〉という単数でもある。恋人を想うのは対であるとは限らない。単独者が不在を想うことも恋人たちであるからである。想うとは恋ということでもある。だが、不在を想い、不在に語りかけることは、閉じられた一室の、目の前にある壁にボールを投げ、壁にバウンドしたボールを自ら受ける無償の行為のように残酷である。この作品の場合、不在とは、通り魔に殺された恋人であり、学生時代から密かに想いを寄せている同性の男友だちであり、自分に関心をもたないくなった夫であったりと……。

殺された恋人の仏壇に思い出を語りかける橋梁点検師のアツシ(篠原篤)、電話の向こうの男友だちに些細なことで招いた誤解を解こうと語りかける弁護士の四ノ宮(池田良)、誰に語り掛けて良いのかもわからなく取引先の男と親しくなってしまったパート従業員の瞳子(成嶋瞳子)。ここにあるのは孤独な語りかけであり、語っても孤独は深くなるばかりだ。語りを外に向けたとしても、孤独がほどけるわけではない。アツシは担当弁護士や医者に、四ノ宮は同性の恋人や弁護依頼者に、瞳子はパート仲間や親しくなった男に。語りは相手に届いたかのようでいて独白にとどまる。だが、彼らにしても、他者から彼らへの語りは闇へと向かうベクトルのようなものであり、他者の眼はおろか、彼らの眼からですら不可視となる。相互不可視であるがゆえに、彼らは孤独から逃れることはできない。映画を見るわたしは、その孤独がほどけ救済されるのかを凝視する。

(『恋人たち』オフィシャルサイトより)

彼らはどのように救済されるのか。

アツシは夜の繁華街で、立ち小便をする男と彼に寄り添い小便を見つめる女を発見する。たわいのない行為と恋人たちの会話。その何気なさに生きることを発見するアツシ。

男友だちの誤解が解けない四ノ宮。弁護依頼者との面接中、眼の前の1本の万年筆に眼を向ける。それは学生時代、男友だちからプレゼントとしてもらったものである。その万年筆に男友だちの自分への気持ちを想い、誤解を受けていることからほどけてゆく自分に気づく。

瞳子は家を出て、親しくなった取引先の男の元に向かうのだが、男がヤク中であり、自分には何ら好意を寄せていないことを知り家に戻る。夕食後、夫は瞳子の体に何気なく触れる。それはセックスのいつもの合図である。「ないから買ってくる」と瞳子。だが、夫は「なくてもいいよ」と言う。「ないと子供ができちゃうじゃない」と瞳子。「できてもいいよ、だって夫婦なんだから」と夫は返答する。瞳子はこのときはじめて、〈夫婦〉という関係で二人は結ばれているのだと感じる。

これが彼らの救済である。
救済は日常に遍くあり、わたしたちはそのことに気づかないでいるだけなのだ。そのことは確かであり、とりたてて特別なことではなく、救済という事態は不意に訪れる……とわたしは思いつつも、このような安易すぎる救済があっていいものかとも思う。3・11後の日本映画は救済を求め彷徨っている。だが、ここ数年の日本映画に見られる安易すぎる救済は、決定的に何かが欠如している。この欠如の表現こそが、映画による救済なのだが。

(救済以前に救済のテーマ)
水面を滑るように進むボート、そして橋梁との音の対話。これが唯一のアツシの分かり合える対話。
足を骨折しギブスの四ノ宮。学生時代から密かに想いを寄せていた男友だちがギブスに早く治るようにペンで書く。これは恋文。
瞳子が通勤に使う自転車。その自転車の後部席に無理矢理乗る取引先の男。これが瞳子の恋の始まり。
これらは希望であり、絶望のはじまりでもある。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

橋口亮輔『恋人たち』予告編


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