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【映画評】 MADE IN YAMATO 宮崎大祐『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』…時間についてのいくつかの覚書

並奏する二のカノン。揺れ動き交錯する音響に浸る愉楽の体験。

タイムカプセルという未来、恐竜という過去、そして「今」という現在。

「今」は更新を前提とする持続する時間であることで、たちまち過去へと追いやられる曖昧さを持つ存在でもある。いまそこに在る(在った)という変貌する時間の曖昧さ。「今」を写真に撮れば、「それは=かつて=あった」というロラン・バルトに帰結する。

右目で見る世界、左目で見る世界。それはコーピー元のないコーピーであり、見ることの根源に、オリジナルの喪失が既にある。右眼によるコピーと左眼によるコピーの脳内視神経での統合を見ているに過ぎない。世界とはそういうものだ、と諦念する。カノンとして並奏する二つのイメージの統合による和声としてのイメージ、それが眼前の世界としてあるに過ぎない。

今を時間を有する存在として捉えるなら、その存在はたえず更新され、たちまちのうちに今は過去へと追いやられる。

今という時間は今という存在に留まることはできない。過去へと押し流されてゆく。「今」なんて存在すらしないのかもしれない。

では、「今」を生きる「私」は何者なのだ。
「私」という人称ではなく、脱人称としてのいかなるものにも所属しない、非人称ですらない「私」が在るのみなのかもしれない。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

『MADE IN YAMATO』予告編


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