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【映画評】 マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』 時間の創生へ向かうポラ写真

マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』(2021)

映画冒頭、クレジットの背景に木々の葉の隙間から漏れる黎明の鈍い光。それは走る車から上方に向けられた視線が捉える光、もしくは薄明の怪しげで幻惑的、夢想への誘いのような光でもある。車をひとり運転するクラリスの視線を暗示しているのだろう。続くショットは、ポラで撮られた家族写真をベッドに並べるクラリス。彼女はポラ写真を眺めながら、recommence(やり直す)と怒ったように幾度も言う。J’invente(想像する《*》)も聞こえる。

やり直すこと、想像すること。何かへのあふれる想いが、彼女に「やり直すこと」、「想像すること」を要請しているようだ。クラリスにおいて、「やり直す」と「想像する」は同義語なのだろう。

世界に確かものはあるだろうか。おそらく何もない。だからこそ、“表象=再現やり直す・想像する”を必要としているのだ。わたしたちは時間の“表象=再現”のなかで生きているに過ぎず、確かなものなど何もないかのようだ。未来を思うことも過去を思うことも、それらすべてが現在であり、それは時間の“表象=再現”に過ぎないのかもしれない。まるで、アウグスティヌスの時間「すべての過ぎ去ったものと来たるべきものが、常に現在であるものによって創造され、そこから流れ出す」(『告白』)に生きているようだ。しかも、単一の“表象=再現”などないのだと。たえず「やり直し」「想像する」という、不断の反復による運動なのだと。

テクストと映像の一致、音響と映像の一致、もうそれすら確かであるとは言えない。三度、いや四度とカウントすればいいだろうか、ピアノの単音が響く。一度目は映画冒頭、クラリスが家を出る時だ。彼女がピアノの鍵盤に車のキーを落としたときの単音。二度目はクラリスの娘リシューが弾くピアノの単音。三度目はカセットに録音されたリシューの弾くピアノをクラリスが車内で聴くときのフレーム外の単音。四度目は何だったろうか…。楽曲ともいえないピアノの単音。単音というシンプルさ。シンプルさゆえに、特殊で純粋で揺るぎない同質な音でありながらも不確実な時間の表象が立ち現れてくるような気もする。

時間の表象は壁の色としても現れる。それは壁を塗るということ。たとえば白い壁からオレンジの壁へと。壁の子供たちの「丈比べ」の印という過去の時間もオレンジへと塗られ消滅する。壁の色の変化、それは時間の推移でもあるのだが、塗られた色が別な色となることで時間は進行するのではなく、色の知覚の入れ子構造として幾重にも“表象=再現”され、映画を見るわたしは、いま●●という時間の断定を求め迷路に入り込む。

台所での家族の食事風景。「わたしを見て」とクラリス。クラリスのオフ・ヴォイスとそれに呼応するかのようなフレーム内の夫マルクの台詞。だが、ここにクラリスはいない。「独り言?」と娘のリシュー。オフ・ヴォイスはクラリスの幻影なのか。それとも、未来の再生(再現)、たとえばクラリスが車内で聞くことになる成長したリシューが弾くピアノの、カセットテープから流れる再生(再現)音のような…。確かのものはなにもないけれど、やはり、求めるのでなければ…。
妻クラリスのオフ・ヴォイスと夫マルクの声の呼応。声は時間を越境するかのようだ。“表象=再現”とは、過去、もしくは未来時制の現在化であり、アウグスティヌスの時間である、と再び呟いてみる。

クラリスはなぜ家を出ることになったのか。娘リシューは「お父さん(マルク)が追い出した」と言う。

映画中盤、スペインとの国境の山岳地帯で、夫マルク、娘リシュー、息子ポールは遭難し、三人の遺体があがる。合理的に言えば部屋の壁をオレンジに塗り替た後のことなのだが、ラストシーンでの壁は、家族が生前の白いままである。

すべてはクラリスの夢幻なのだろうか。つまり、すべてはクラリスの時間の“表象=再現やり直す・想像する”なのだろうか。再現の中で、彼女とマルクとの二人だけの会話はあるのだろうか。娘リシューは父マルクに「独り言?」という二人の会話の呼応を想起させるシーンを思い出してもいいだろう。

クラリスがポラ写真を見て家を出るラストシーン。これは冒頭シーンの反復なのだが、冒頭はカメラが能動的にクラリスにやり直すことを促すある種の暴力のような作用を感じさせるのだが、ラストのカメラは、2階からクラリスを静かに眺めるにとどまった。時間の再現の能動性と受動性。すばらしい構成だった。ここにあるのは消滅したものの単なる復元ではない。再現であり復活でもある。

作品webに「展開を知らない観客が、ある真実に気づいたとき、心が動揺するほど感動したという」とあるが、確かにバラバラだったピースが組み合わされ一つの図となる。だが、そんなパズルゲームですむ作品ではない。ここでは、バラバラのピースの整合性を形成しようとするのではなく、ピースが織りなすポリフォニーと和声をあるがままに受容し時間を表象する。そのことで生成される世界の豊かさをただ見つめるにとどめる方が良いかもしれない。写真(ポラ)を見る者(クラリス)の時間をポリフォニー、和声として多層化する。そのとき、過去も未来も現在時制上で同質化される。マチュー・アマルリックの思考の基部には、バルト『明るい部屋』の、あのよく知られたテーゼ〈それは=かつて=あった〉がある。〈それは〉という空間的直接性を、〈かつて〉を接続とし、〈あった〉という時間的先行性へと結合させる。本作におけるポラ写真の必然性はここにある。それを、「クラリスの時間」と名づけてみたい。

「クラリスの時間」に見る多層化にはめまいのような時間と狂気があり、それを経ることによる過去の「救済」を要請しているかのようだ。写真には写された者の記憶と死が深淵にある。それは、写真の不動性とも関連する。写真は未来(本作では救済)へと運ばれる力と過去(本作では死)へと連れ戻す力を同時に作動させる。だから、クラリスがポラ写真を撮っていなかったらと考えると、そのとき、『彼女のいない部屋』は根源的に違った物語、編集(本作ではポラ写真をベッドに並べること)となるだろう。もしくは、物語そのものが存在しないかもしれない。そのときの「過去」は、プルースト的な時間の記憶ではなく、家族がいた「場所」という存在の事実でしかない。それゆえ、『彼女のいない部屋』は奇跡の映画と称しても良いだろう。

「写真」から過去を読み取り、と同時に「未来」を生成(夢幻)するという驚き。そしてその行為が「現在」であるということ。マチュー・アマルリックは、それを映画にしてしまったのだ、という本作の驚き。

クラリスがポラ写真を再構成し、繰り返し「やり直す」を試みようとするのは、写真が保持、つまり、写真のノエマが不動性であることによるのだろう。写真そのものに出口あるのではない。本作は、写真を繰り返し見直し、再構成すことで、時間の秩序(=ノエマの不動生)からの解放、つまり、家族の死による時間の停止からの解放に迫ろうとしたのだ。

最後に、部屋に飾られたロバート・ベクトルの絵を思い出しておこう。ロバート・ベクトルは写真のトレースによるハイパー・リアリズム、フォトリアリズムの画家である。娘のリシューがロバート・ベクトルの絵画に描かれた(母、娘、息子の家族絵画)母親の肖像を指でなぞるシーンがある。リシューはそのことで母親に触れる感覚を覚えるのだろうか。本作の原題は「Serre Moi Fort」。「強く握り(抱き)しめて」である。指で触れる映画。ピアノの鍵盤に触れる、写真に触れる、絵画に触れる、不在に触れる、ということ。

映画ラスト、クラリスは家族の記憶の詰まった家を売り払い出るのだが、扉を開ける庭の一台の赤い車(これまで頻繁に出てきた車)へと向かう、そしてその次に二階から庭を捉えたショットがフレームに呈示される。なんと不可思議な視線なのだろうか。そして、運転するクラリスの横顔をカメラは捉え、終幕となる。

《*》補足
ここ修正しなければならない。本作はクラリスのJ’invente “想像”ではなく、アウグスティヌスの時間概念で述べた“創造”なのだ。さに時間概念を前景化させ、“創造”ではなく、“創生”とすべきだろう。女性は男性を遥かに超えて“創生”へと至るのだ。これは、中村佑子著『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)の女性の振幅と揺らぎの思考の原理を手繰り寄せることで、わたしを女性の“創生”への想いへと向かわせたのだ。つまり、本作がクラリスではなく、夫・父であるマルクの物語だとしたら、と思ったのである。

(監督マチュー・アマルリックについて)
1955年、ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。ジョージア出身の名匠オタール・イオセリアーニ『月の寵児たち』(84)で俳優として映画デビュー。
アルノー・デプレシャン『そして僕は恋をする』(96)に主演して注目を集める。
その後、『ミュンヘン』(05)『007慰めの報酬』(08)『グランド・ブダペスト・ホテル』(14)等に出演。
監督デビューは『スープをお飲みMange ta Soupe』(97)。『ウィンブルドン・スタジアムLe Stade de Wimbledon』(01)、『さすらいの女神たちTournée | On Tour』(10)でカンヌ映画祭監督賞、国際映画批評家賞を受賞。『青の寝室La Chambre Bleue』(14)でカンヌ映画祭ある視点部門出品、『バルバラ セーヌの黒いバラ』(17)でカンヌ映画祭ある視点部門開幕作品、そして本作『彼女のいない部屋Serre Moi Fort | Hold Me Tight』(21)カンヌ映画祭プレミア部門出品。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』予告編


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