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【映画評】 安川有果監督『Dressing Up』の断片的試論

どこに在ってもいい気がするし、ここであるとか、あそこであるとか、名指しなどするほどでもなく、目が覚め、闇から抜けきらない意識の中でさえも、やはりそれは在るのであり、気付くまでもなく、そこには駆り立てるものがあり、それに抗おうにも為すすべはなく、例えば「降ろせ」と呟いてみたり、「死ね」と呟いてみたり、それらは車の走行音とか、得体の知れない音、例えばヘリのプロペラ音かもしれない雑音にかき消されたりもするのだけれど、確かに「降ろせ」とか「死ね」と何かに向かって命令したのであり、どこにでも在り、けれどどこなのかを述べるのは恐ろしい気がしたのだけれど、わたしの目の前に、おそらく大阪周縁の、大都市周縁ならどこにでもあるような住宅地が広がっていて、それはそこにも在るに違いなく、いまはとりあえず「在る」としか言えない。

いくぶん俯瞰気味に撮られた住宅地を1台の車が走行しており、断続的なノイズのような持続音と車の走行音が映像に被さる。車内には2人の男とひとりの少女・育美(祷キララ)。2人の男は少女の父親(鈴木卓爾)と会社の同僚であり、父・娘の訳ありの引越しなのだろうか、少女は後部座席に不機嫌な顔相でおり、何かが憑いたかのような不穏な言葉を呟くのだが、男たちにはその言葉を明確には聞き取れない。それに繋がるように道端には制服姿の女子中学生(佐藤歌恋)が佇んでおり、彼女は何かを予感したかのような眼差しを車の走行に向けている。
安川有果『Dressing Up』。
冒頭のわずか数分で示される不気味さを腹部に詰め込んだような重々しいシーンはこの映画の文体なのだと予感する。

大都市周縁という輪郭も定かではない存在が、ノイズと走行音と少女の呟き、そしていまひとりの少女の眼差しで、どこかとんでもない世界へと迷い込んでしまったに違いない。

あのヘリのプロペラ音は何なのだろうかと気になって仕方ない。「あっ、ヘリの音が聞こえる」と呟いてみても、「そんな音しないわよ」と軽くいなされてしまうのだが、わたしには確かに聞こえたのであり、それを幻聴と言ってしまえばそれで済んでしまうことなのだが、そのノイズは大都市周縁を不穏に振動させ、少女はそれに呼応したかのように「降ろせ」とか「死ね」と不気味な呟きを吐くのであり、ヘリのプロペラ音というノイズを「不可視」な音ととりあえず呟いてみる。

「不可視」は世界を振動させ裂け目を作る。『ゴダールの決別』で見た隕石のかけらのような男を思わせる、あの痩身の、裂け目から不意に現れ今にもダンスへと移行するかのように少女のそばに佇むあの老人(デカルコ・マリィ)。

老人とは少女の母(平原夕聲)方の祖父であることが後に判明するのだが、そこに至る時間には切断というか断絶があり、その断絶そのものが「在る」という存在なのだと理解する。

少女は自分自身の風景を見つめるのだが、さまざまにうつろい、たったひとりで、ここにいるということを感じることもできないほどの自分には定点がないという不安。

痩身の老人により露わになる「在る」は切断と断絶でしかない。フレームの内部には夥しいほどの「在る」が呈示されており、在るを《超える》ことを意識するしかない少女にとり、世界とは全てをバラバラにする存在なのであり、安定ではなく、暴力へと猟奇化する意識でしか母は救済されないという少女の絶望的な孤独は学友の女子中学生にも暴力として向う。学友は自己の忌まわしい写し鏡としてのネガ、分身としてのネガでもある。

「在る」を超えること。《越える》ではなく《超える》と記す。それを夢とか幻想と言ってもいいのだが、〈結界〉を《超える》と表現したい衝動にかられる。老人は結界の番人。学友の女子中学生は少女に伴走する結界をいち早く感じた存在としての少女のネガ。少女を結界を超える存在として寓話化したい衝動にわたしは駆られる。

老人の死により少女は結界を超えることができる。老人は動物に襲われたということになっているのだが、少女は亡き母の仕業と感じる。これは少女に結界を超えさせるための儀式でもある。山中に分け入ると1軒の家屋があり、そこには仲睦まじい父と母の姿を見るのだが、やがて母は怪獣に変貌し父を襲う。少女の姿に気づいた怪獣は少女を抱擁する。そこには母との魂の交感にとどまらず、そのことによる母の救済と獣性の浄化、そして母の血を受け継ぐ自己の猟奇的な獣性からの解放があり、学友である女子中学生との和解という救済へとつながる。学友は少女にとり社会そのものである。

ここには山本政志『水の声を聞く』の救済を思い出させるものがある。終焉を告げるかのように一枚の樹の葉が水槽に舞い落ちる。カメラは水面に浮かぶ葉を捉えると葉に火がつき、小さな炎となった。何かが浄化されたようであった。それは、奇跡のような救済でもあった。山本政志においては《水》であり、安川有果においては《結界》である。

安川有果にクリスティアン・ペッツォルトとの親和性を見ることは幾分暴力的な規定なのかもしれないが、そういった欲望に駆り立てるものが安川有果にはある。それはペッツォルトの《 幻影(Gespenster)》の様相に引きつけられるからではない。そこには社会という円環の内部・外部を往還する激しい孤独な振動があり、それが《結界》《幻影》という風土へと還元されることで表現の豊かさを実らせているのである。そして両者は、ファスビンダーの周縁と触れ合いながらも、その外部の一部を形成しているようにも思えるからである。

『Dressing Up』は《結界》という胚でもある。助監督の清水艶はのちに『灰色の鳥』を制作し、母殺し、過剰な意識、女性という霊性、かくれんぼ、追われるという様相、そこにも結界はふとした場所にあるのであり、気づかぬまま足を踏み入れていることになる。

《結界》という胚は溢れるほどの豊穣な宇宙を生み出す。制作者のひとりである草野なつか監督『螺旋銀河』を思い出してみる。コインランドリーのドラムという回転運動による重力発生装置を配置することで、登場人物を双対的に無定義な存在(映画では対義語として描かれている)へと超えさせ、そこにはアルキメデス的な結界の出現(双対的に無定義な登場人物の螺旋運動)を見出すことができる。

わたしは断言する。ヘリのプロペラ音は確かに聞こえたのであり、「在る」を担保させるのはその不可視の音なのであり、それなくして隕石のかけらのような老人の存在も不穏を予感する女子中学生も現れ得ないだろうし、安川有果、清水艶、草のなつかのような女性監督たちの豊穣な地層も出現し得なかったと確信するのである。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

安川有果『Dressing Up』予告編


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