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【映画評】 ガストン・ドゥブラット、マリアノ・コーン『ル・コルビュジエの家』世界は《内/外》に二等分される

世界は《内/外》で二等分されている。内にハンマーが振られ打音が鳴り響き、と同時に外は振動する。再びハンマーが振られそれが繰り返される。内が崩れるとともに外は亀裂が入り、やがては内と外は穴で繋がる。世界とは、白・黒で左右に二等分されたスクリーンのフレームのことである。

アルゼンチンの監督ガストン・ドゥブラット、マリアノ・コーン『ル・コルビュジエの家』(原題)《El hombre de al lado(隣の男)》(2009)の冒頭のシーンである。

ここからストーリーに触れています。

妻と娘、3人でル・コルビュジエ設計のクルチェット邸に住むデザイナーのレオナルド。ある朝、大きな音で目を覚ます。見知らぬ隣人がクルチェット邸に向け、窓を開けるべく壁に大きな穴をあけている。レオナルドは窓を作られると私生活が筒抜けになり、妻や娘は洗濯物の下着も干せなくなると隣人にクレームをつける。隣人の名はビクトルという名の男。見るからに品行怪しげな強面の男である。彼は「部屋が暗いから、余っている太陽の光をちょっと入れるだけ。お宅を覗くなんてことはしないよ」と言う。なんとか話し合いで解決しようとするレオナルドなのだが、隣家の騒音で気持は乱れ、妻との間にも亀裂が入り崩壊寸前になる。一時はビニールシートで塞いだものの埒があかず、レオナルドは法律家を使い脅しまがいの行為に出る。隣人ビクトルもスパイのごとくレオナルドの行為をチェックし、すべてをお見通し。ビクトルに譲歩の気配はない。ビクトルは「わが友よ」とレオナルドに執拗に近づく。恐れをなしたレオナルドは、防犯用通信アラームを設置する。やがてレオナルドは、ビクトルが情の人であることに気づく。そこでレオナルドの妙案。実は我が家は叔父の所有で、叔父は窓の件を決して受け入れようとしない。わたしはあなたと叔父の狭間で困り果てている。わたしの気持をあなたは理解してくれないのかと懇願する。ビクトルは情にほだされ、窓をスリット幅に狭めることで合意する。それでもレオナルドの妻は納得しない。ある日、レオナルド夫妻が外出する。その隙を狙って賊がクルチェット邸に浸入し、娘と家政婦を襲う。その一部始終をスリット窓から見ていたビクトルは2人を助けるべく、拳銃を持ってクルチェット邸に入る。賊はビクトルに気づき逃げるが、その際、ビクトルは賊の銃撃の一発をくらう。防犯通信を受信したレオナルド夫妻は急いで家に戻る。ビクトルは瀕死の重傷。レオナルドは医師を呼ぼうと思うが、躊躇う。スリット窓のこともあり、ビクトルが死んでくれれば…。ビクトルは息をひきとる。

ビクトルという主を失ったスリット窓はレンガで塞がれ、ビクトルの消滅とともに窓も消滅する。

以上が『ル・コルビュジエの家』のストーリーである。

(レオナルドとビクトル。「スリット窓」)

ここから映画的覚書

(1)冒頭の世界が《内/外》で二等分されているシーン。世界とはフレームのことである。二等分された右半分は隣家の白壁の内部、つまり隣家の室内(=内)。左半分は白壁の外部、つまりクルチェット邸から見える隣家の壁(=外)である。この《内/外》は見る主体と見られる対象により反転することもある。つまり〈構図/逆構図〉(つまり撮影カメラがビクトルの部屋からクルチェット邸に向けられるか、あるいはその逆構図か)、および見る主体(ビクトルかレオナルドか)により、《内/外》は《外/内》に置換可能である。
(2)穴は矩形のビニールシートで塞がれるのだが、これは日本でも使用されているゴミ用の黒いビニールシートである。矩形と黒、これは何を意味するのだろうか。黒いからクルチェット邸からは内部の様子は不明である。内部でどのようなことが行われているのか。騒音で苛立つレオナルドは釣り竿を使ってシートを剥ぎ取る。そこに現れたのは単なる穴ではなく四角い窓。まさに矩形の開口部の出現である。
(3)クルチェット邸はル・コルビュジエの設計。つまり、外に向かって開かれた家である。外に向かって開かれるとは内部から外部へと向かうと同時に外からの視線に絶えず曝されているということである。では何故にレオナルドは隣家の窓を拒むのだろうか。これは(1)と関連することのように思える。
(4)ビクトルはレオナルドの行為をチェックしているのだが、それは(3)のクルチェット邸は外に向かって開かれた家であるということにすぎない。決して開けられた窓からではなく、開けられた窓は、あくまでも「余っている太陽の光をちょっと入れるだけ」である。これは倫理上の問題なのか、あるいは映画文法の問題なのか。
(5)レオナルドの妻は、何故、細いスリット窓でさえ拒むのか。
(6)レオナルド夫妻はパートナー同伴のパーティーを自宅で開催する。レオナルドの妻はヨガ教室を開いており、ヨガの受講生もパーティーに招待する。もちろん彼氏を連れてくるのよと念を押す。ところが受講生が同伴してきたのはクルチェット邸の隣人、つまりレオナルド夫妻があれほどまでに拒んでいたビクトルだった。ビクトルははじめてクルチェット邸をのぞくことになった。レオナルド夫妻は隣家の窓の件で、セックスも1ヵ月間ご無沙汰しているというから崩壊寸前状態。ところがビクトルは、「舌を使わせたら世界一うまい女だぜ」と恋人のことを惚気る。
(7)開けられた隣家の窓で演じられるエピソード。
夜中に隣家から聞こえる男と女の騒がしい声。レオナルド夫妻が覗き見るとビクトルと女が窓辺で戯れている。ここで、隣家から覗かれるという不安は覗く行為へと反転している。
手の人差し指と中指を女の足に見立てビクトルはセクシーなダンスを演じる。このシーンは2度ある。1度目は四角い窓で、2度目はスリット窓で。このダンスショーを見ているのはレオナルドの娘。この場合、《覗く/覗かれる》ということの反転ではなく、覗かせるということである。
(8)賊が浸入するのはスリット窓で演じられる2度目のダンスショーのときである。それゆえ、賊の侵入の一部始終をビクトルは目撃することになる。このときはじめて、ビクトルは開けられた窓からクルチェット邸を覗くことになる。そのときまで、ビクトルはレオナルド夫妻から覗かれ、娘に覗かせるのであり、決して彼のほうから覗くことはなかった。
(9)カメラの位置。ラストシーン(カメラはビクトルの部屋の内部、スリット窓の内部からクルチェット邸に向けられる。これは(8)のスリット窓から覗くことで解禁されたからだろうか)。
(10)開口部としての窓は再びレンガ塞がれ、スクリーンは暗転する。
(11)窓辺の戯れ。それは《覗く/覗かれる》から、《覗かせる/覗かれる》への転換である。
(覚書終了)

『ル・コルビュジエの家』予告編


(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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