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【映画評】 ジャンフランコ・ロージ『国境の夜想曲』 明けることのないNOTTURNO

ジャンフランコ・ロージ『国境の夜想曲』(2020)

これは特別なドキュメンタリーだ。ドキュメンタリーを仮構したフィクショナルな映画。世界はフィクショナルであることをアプリオリとしたドキュメンタリー映画である。

監督であるジャンフランコ・ロージは、三年以上の歳月をかけ、イラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を撮影する。アメリカのアフガニスタンからの無責任な撤退後、さまざまな情勢が巻き起こる。侵略、圧政、テロリズムによる多くの犠牲。痛みに満ちた土地をジャンフランコ・ロージは通訳を伴わず歩く。

全編フィックスカメラで捉えた戦場の兵士、銃後の母、子どもたち。トーチカの開口部から捉えられた哨兵たちの静かな佇み。牢獄の壁面に向かい捕虜として獄死した息子のことを嘆く母親たち。ISISの残酷さを絵に描く子どもたち。巨大な壁に金属扉と開口部。開口部から赤いつなぎを身につけた男たちが現れる。男たちは捕虜なのか。壁に囲まれた大きな広場での束の間の開放感。その後、男たちは再び金属扉と鉄格子で閉ざされた牢獄へ。穏やかなようで荒みきった夜の街路。精神病棟。轟音をたてて走り去る若者のバイク。ここに戦闘による血の映像はない。唯一血の描写があるのは、精神病院での演劇。舞台中央に映写される戦争のドキュメンタリー映画。どこまでが戦場で、どこからが銃後なのか。判断できるはずもない。すべての戦時、それが戦争なのだ。ジャンフランコ・ロージはそのことを描こうとしたのだろうか。
ラストシーンは、夜があけきれぬ頃、母親に起こされる少年。国境付近で雇い主を待つ。今日は鳥撃ちの男のアシスタントのアルバイトだ。だが、薄明の道で待っていても雇い主は現れない。

国境とは曖昧な存在であり、自己と他者、その境界でもある。それは、ロージ監督と被写体との境界としての国境でもある。被写体は自分自身を演じる。自己と演じる自己。ここにも国境はあり、これがロージにとってのドキュメンタリーなのだろう。

戦争は国境をめぐる欲望の露出である。国境とは曖昧で、国を確定するラインのことでもあるのだが、そこにはラインを超えて往来する人々や物資が存在する。そして、ロージ監督にとっては自己と自分を演じる自己の境界、監督と被写体との境界、フィクショナルなドキュメンタリーという映画内に内包する境界、それらも国境のように曖昧である。ドキュメンタリーとフィクションの往還。それら総体が、ロージにとっては国境のように思えた。

原題は「NOTTURNO」であり「国境」の言葉はない。
だが、国境は人を惑わす明けることのない調べ(NOTTURNO)でもあるのだ。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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