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【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・本章(1)

本稿は
《宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章…遠近法による一元化》
の続編です。

本章(1)

序章では天皇表象における遠近法による意味の一元化について述べた。ただ、序章で述べたのは日本の新聞写真上の「天皇夫妻の写真」における〈遠近法〉による意味の一元化ということであり、わたしはイメージにおける〈遠近法〉の危険性を指摘したまでである。そこでの〈遠近法〉の要旨は、たとえば射影幾何学の、視覚の円錐の頂点から世界へと射影する主体への付与であり、集団無意識(=国民)の奥底で優位を維持する支配装置となる〈遠近法〉の一側面ということである。だから、〈遠近法〉そのものを否定するつもりはない。またロラン・バルトの〈それはかつてあったエテ〉を批判するつもりでもない。あくまでも、2005年6月28日付夕刊の新聞紙面の1面を飾った「天皇夫妻の写真」について述べたものである。また、本稿ではボードリヤールを引用する中で「ミト」論を展開するのだが、ボードリヤール自身の写真体験はロラン・バルトの〈それは=かつて=あった〉と親和性が高いことを強調しておきたい。それは、ボードリヤールがカメラを手にした時期との社会背景も関係しているだろう。
ボードリヤールがニコンを手にしたのは1980年代初頭。スマホによるSNSやヴァーチャルな情報処理への没入のよる指向対象(モノ)の変質(これは「ミト」論の核心を突くものである)がなかったのは言うまでもなく、市場にデジタルカメラすらなかった。一般向けデジタルカメラの発売は1990年、Dycam社製「Dycam Model 1」と言われている。利便性の面で広く認知されたのはそれから遅れること1995年発売のカシオ計算機製「QV-10」である。つまり、ボードリヤールの写真論とはフィルム写真論のことであり、彼が世界に向ける視線にはカメラを手にする主体の優位性はなく、客体(モノ)のあるがままの、つまり〈それは=かつて=あった〉の優位な認識である。ボードリヤールの写真論については、1999年4月7日の講演録が訳出されているから、それを参照していただければと思う(アンヌ・ソヴァージョ『ボードリヤールとモノへの情熱』所収「現代思想の写真論(ボードリヤール講演録)」)。ロラン・バルトの〈それは=かつて=あった〉との親和性はボードリヤールばかりではない。最新の映像理論を展開するレフ・マノヴィッチも『ニューメディアの言語』(2001)において、「伝統的な写真がつねに過去の出来事を指し示しているとすれば、合成による写真は未来の出来事を指し示すのである」と述べている。「過去の出来事」とはバルトの〈それは=かつて=あった〉と同義である。また、いうまでもなく、この場合の「合成」とはコンピューターによる「デジタル合成」のことである。

さて、宮崎大祐監督作品だが、わたしはすべてを見ているわけではない。コアなファンからすればそれだけか、と思われるに違いない。『#ミトヤマネ』(2023)以前に鑑賞した作品を列挙したい。

『大和(カリフォルニア)』(2016)
『遊歩者』(2018)短編
『TOURISM』(2018)
オムニバス『MADE IN YAMATO』より「エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日」(2021)
『VIDOIPHOBIA』(2019)
『ニンゲン三部作』(「Caveman’s Elegy」「ヤマト探偵日記/マドカとマホロ」「I’ll Be Your Mirror」)(2021)
『PLASTIC』(2023)

長編第一作『夜が終わる場所』(2011)を見ていないのが残念だ。見る機会があれば是非見たい作品である。タイトルからニコラス・レイのフィルム・ノワール『夜の人々』(1948)を思い出すのだが、おそらく違うだろう。

宮崎大祐監督作品には一貫した主題系がある。「オリジナル/コピー」、「参照項のないコピー」、「実在論」、「亡霊・憑在」、「脱領域化」、「二人の女性と一人の男性」、「拡散」、「移動」。
これですべての主題系を列挙したわけではないのだが、宮崎大祐監督の作品はそれら主題が作品ごとに様相を変え交錯することで立体化される構築物としての映画と言えるだろう。その構築物をいかに見る者の思考に取り込むのか、それが映画を見る者の能動に委ねられている。宮崎大祐監督作品はどのように捉えていいのか分からなく難解だ、と言われることがあるけれど、映画を見るという受動性ではない能動性の強度を必要とするからなのだろう。だが、『#ミトヤマネ』に見られるように、宮崎監督作品は躍動的で色彩に富み、時には色彩やその形態自体が躍動的でリズミカルでもある。valkneeのラップでミトやミホのダンスをするシーンなどは気づくと自分の体が動いているという受動性もある。『VIDEOPHOBIA』などはフィルム・ノワール的表象に満たされているから、必ずしも見る者の能動性にのみ依拠しているわけではない。だが、それだけで終わる作品でもないことは事実であるけれど、映画を見る快楽は無条件に備わっていることも事実だ。

さて、そろそろ『#ミトヤマネ』(2023)について触れることにしたい。

『#ミトヤマネ』は、監督によればこれまでの集大成となる作品であるという。わたしの手に追えない作品なのだが、まとまりに欠ける危険を孕みながらも、思いつくまま、「論」となる一歩手前に身を置きながら書いてみたい。主題系を主軸として書けばいいか、それとも物語の時系列で書けばいいのか悩むところだ。今回は「論」の手前にとどまろうと思うので、主題系ではなく時系列で書くことにする。そのため、重複することもあるだろうが、冗長な部分は単なる宮崎大祐監督作品ファンの文と読み飛ばしていただければと思う。

【物語】
主人公のミトヤマネ(玉城ティナ)は絶大な人気を誇るインフルエンサー。ミトを陰で支えるのは妹のミホ(湯川ひな)。ふたりは協働で日々様々なモノをSNSで投稿する生活を送っている。ある日、中国企業のディープラーニングアプリ「レッズ」とのコラボ案件がマネージャーの田辺(稲葉友)から持ちかけられる。共同でミトの顔を他者にコピーする「ディープ・フェイク」の提案である。そのことでミトを世界的アイコンにしてはどうかとマネージャは考えている。妹のミホは心配するのだが、ミトは「いいんじゃない、面白そうだし」と了承する。アプリは大人気となり、世界中にミトの顔が拡散される。だが、ミトの顔を悪用する者が次々と現れ社会問題となる。そんな状況ですら喜ぶミトなのだが、やがてふたりは社会からはじき出され、ミトとミホの関係も危うくなる。そして、ふたりは相互に決意ともいえる選択することになる。その決意とは……。

以上が物語の要旨である。

作品の「主題系」と述べたのだが、映画冒頭の連続する5つのプロットにその主題系を見ることができ面白い。

1)作者不詳(アノニマス)によるエピグラフの提示。
「これからは誰でも一瞬だけ世界的に有名になることできる」
アンディ・ウォーホルの言葉であるという真偽はともかく(ウォーホルの言葉と神話化されているのかもしれない)、このエピグラフは、“15 minutes of fame”と呼ばれる「未来は、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」に由来する。これは終盤におけるミトの声明に繋がる、いわば円環構造を準備するエピグラフである。さらに、アノニマスとは匿名性、もしくは不可視の存在でもあり、宮崎監督が追求してきた主題である。監督は吉野大地氏のインタビューにおいて「名前も過去もなくなってしまったら人はどうなってしまうのだろう、あらゆる記号やイメージから逃れ、はざまに存在してしまったらどうなってしまうのだろう。「名づけえぬもの」、言い換えれば亡霊になることに、ぼくはずっと興味を持ち続けてきました。」と述べている。本稿にはいくたびもインタビューからの引用があるが、それらはすべて、吉野大地氏によるインタビューである。そのため、今後は特別な場合を除いて名前を省略し、「インタビュー」と記することにする。

宮崎大祐監督作品には亡霊がいくたびも現れている。それは、たとえば『TOURISM』冒頭における言及される亡霊としてのみならず、「名づけえぬ」存在としての亡霊はいくたびも映画内に現れている。映画を見る者が気づくか気づかないかは別問題としてあるとしても…。『#ミトヤマネ』においては、〈実在/亡霊〉の境界を揺るがす、もしくはその境界が確定する二項対立の不在に覆われた世界を見ることができるはずである。

2)「ミトヤマネ」に関する街頭テレビインタビュー。「カリスマ、おしゃれ、手が届かない感じじゃない、日常にない感じにさせてくれる、人気絶大、現実感がない」。ミトが絶大な人気のあるインフルエンサーであり、「推し活マーケティング」の覇者であるとことを示している。このことはのちに起こることへの暗示でもある。つまり、覇者を崇める視線が攻撃や晒す視線へと転換されるということである。

3)アニメ+イラスト+ラップ。「もっと切り抜いて、繋がって」。編集可能態として切り抜くこと、繋げること。
レフ・マノヴィッチが言う「映画キノ-アイ」ではなく「映画キノ-ブラッシュ」という、デジタル時代のミューメディア表現である。
ここで、レフ・マノヴィッチ「映画はアニメーションの一ジャンルにすぎない」、そしてマノヴィッチのテーゼを修正加筆したトム・ガニングのイメージが「動く」を見ることができる。
動き、色彩の煌びやかさ(これは、ディープ・ラーニング後のDJライブとラップ、ミトたちのグリッチ的ノイズを発生させるダンスシーンに繋がる)。

4)鏡の前のミトのシーン。ミトは「ミトヤマネです」と手話を交えて自分を紹介する。いま、「手話」と書いたのだが、ミトの左手の振りが手話なのかはわたしには不明である。ただ、映画終盤で、ミトがカフェで過ごしているシーンにおいて、手話で会話するカップルがミトを見つけ、ミトと同じ手の振りをしたことから、手話ではないかと理解したまでである。この手話による会話は、通常の音声による会話とは異なり、言語の「脱領域化」ではないのかとも理解したのである。それは、宮崎大祐監督作品がジル・ドゥルーズの映像化でもあるからである。この「脱領域化」は、ミトの東北弁のシーンで再び言及することになる。
さらに、鏡に写る映るミトの顔に注意する必要がある。これは『VIDEOPHOBIA』のラスト、鏡に自分の顔を映すシーンからの接続であると言えるだろう。鏡に映すミトの顔のシーンを、物語のはじまりとするならば、『VIDEOPHOBIA』のラストと、『#ミトヤマネ』のはじまりが鏡に映された顔であることは重要である。作家性とは作品を単一性として捉えるのではなく、作品間の関係性という連続性のことである。その総体が作家性なのである。たとえばシャンタル・アケルマン監督。彼女の『街をぶっ飛ばせ』(1968)がガスに火をつけアパートの爆発音で終わり、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)がガスに火をつけることで始まることを想起すれだけで充分だろう。同一監督の映画の連続性は、作家性という観点から極めて重要である。連続性のない監督作品は見ることの深度がないと言えるかもしれないと思うのだが、これは言い過ぎだろうか。

5)、4)に続くミトの部屋のシーン。ミトを陰で支える妹ミホ。彼女なテーブルを前に座り、テーブルには卓上両面マル鏡が一つ置かれている。同時にではないが、鏡にミトとミホの顔が映っている。「映っている」ことの重要さがのちに分かることになる。さらに、鏡は両面鏡になっており、表面は等倍鏡、裏面はおそらく拡大鏡である。拡大鏡は像の歪みと流れがある。つまり、卓上両面マル鏡の構造は〈表/裏〉からなり、それは自己とその歪んだコピー・増殖と言い換えることが可能である。「卓上+両面+マル+鏡」は本作の慧眼とでもいえる装置であることが、のちに理解できる。そういえば、「マル」についてだが、吉野氏は『大和(カリフォルニア)』におけるインタビューで、サクラ(韓英恵)のモンタージュのファーストカットに映り込むマルを「円形のアイコン」と評し、円は宮崎大祐監督作品の重要さであると述べている。

ここで鏡によるコピー・増殖について述べておきたいのだが、それに相応しいのは、映画ならばジャック・リヴェットやファスビンダーだろう。リヴェット作品としては、『アウト・ワン』(1971)の鏡による反復(A→A’)、ファスビンダー作品ならば、『13回の新月のある年に』(1978)における、エルヴィーラの身体の多層性である。だが、これについてはのちに触れるだろうから、ここではアルゼンチンの盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスを介し、グノーシス派の宇宙論を参照項としたい。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスは『伝奇集』の「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」において次のように述べる。
「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」(鼓直訳)。
これはビオイ=カサレスがウクバールの異端の教祖の言葉として述べたのだが、正しくは「交合と鏡はいまわしい」だったとボルヘスはいう。その出所は『アングロ・アメリカ百科事典』のウクバールの項である。そこには「それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである」とあったという。
グノーシス派はアウグスティヌスが若い頃に惹かれていたマニ教の二元論や異端カタリ派にも繋がる反宇宙論であり、「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」が見られる。これは『#ミトヤマネ』の謎の多いミトのラストシーンの予兆としてあると思える。
ラストシーンについては、ミシェル・セール『生成』の〈響きと怒りノワーズ〉にミトの救済を試みたいのだが、果たしてうまくいくだろうか。
〈響きと怒り〉についてはミトのラストの項で詳しく述べるが、〈ノワーズ〉は現在では使用されないフランス語古語であり、〈ノワーズ〉が英語化したのがノイズ(雑音)である。ジャック・リヴェットが映画化したバルザック『知られざる傑作』で見られる「美しき諍い女」は「ラ・ベル・ノワズーズ」である。宮崎大祐監督作品がリヴェットを参照項とあることは確かである。

1)から5)までのわずか数分の時系列。
この連続する5つのプロットは本作の本質の呈示であり、この時系列の簡潔さに感動を覚えないわけにはいかない。

論述が冗長になりすぎている気もするが、今後もダラダラと思いつくままの文になるような気がするのでお許しいただきたい。「序章」と「本章(1)」だけで9000字を超えてしまった。

週に一度のペースで発表していきたいので、気長にお待ちいただければ幸いです。
できる限り短くなるよう工夫しなければ。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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