宗教を教える親たちへ#1
皆が幸せな世界
誰もが幸せになる宗教。
本当にそんなものが存在するなら、今きっと戦争は起きていない。
宗教で幸せになった人がいる。
絶望の淵で、助けられた人がいる。
それは真実だと思う。そういう人も実際に見てきたし、私自身もそんな瞬間があった。
人間の信じる力は、もの凄く強いものだから。
私は生まれた時から宗教3世だった。
どんな宗教にも教義がある。
どんな考えもそれぞれ素晴らしいと認めていながらも、やっぱり一番はどれなのか?みたいになる。
そして、みんな己の信じるものが一番正しいと思っているからこそ、それを信じている。
それが世界で誰一人もれず同じならば文字通りのユートピアが完成するだろう。
でもそんな世界は存在しない。なぜならば、人間は一人一人が違う個だから。
目的と手段の逆転
信仰とは、それが趣味のようなものではなく、それが生き方になること。
たとえば、「スイーツが好き」という感覚ではなく、「スイーツ」が人生で一番価値の高いものになる感じだ。
宗教の教義が人生の価値基準の第一優先事項になる。
幸せになるために信仰するはずなのに、なぜが宗教のために生きるようになる。
だから自己破産してまで寄付したり、友達に嫌われてまで布教するような事が起きる。
幸せという呪縛
みんな世界の平和を広い意味では願っているし、もちろん自分の家族、友人には幸せになって欲しい。
だから、幸せ=宗教の構図が出来上がっている大人が親になると、親が子供を幸せにしたいなら宗教をやらせるのは自然な流れだ。
一番幸せな生き方がわかっているなら、子どもに教えたいだろう。
子どもには幸せになってほしい。
悪気があるわけでも、もちろん子どもを不幸にしたいだなんて、多分一ミリも思っていない。ただ、子どもに幸せになって欲しい。
そう思っているだけ。
それが子どもには辛いことでも、親は子どもには幸せになって欲しいのだからやらせる。子供が不幸になるのを、見ていられないからやめさせられない。
やめたら、どんな罰が、地獄が待っているかわからないのだから。当たり前の感情。
わかるよ。
でも、それは本当?
本当にそれが子どもの幸せになる?
私は今は宗教活動をしていないし、新たな価値観の中で生きているけれど、以前は幹部に近いところまで行くような猛烈な活動家だった時代があり、どっちの気持ちも、本当にわかる。
でもあの頃の気持ちもだんだんと思い出せなくもなってきて、どうしてあんなに色々なものを犠牲にしてやってきたのだろうとも思う。
きっと、価値観が全て宗教だった親に、認めて欲しかったんだと思う。
ただ、親に愛して欲しかった。
…#2につづく
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