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北欧映画「イノセンツ」波立つ子供たちの心

7/28(金)公開の「イノセンツ」という北欧発の映画を観ました。

(c)Mer Film (c)2021 MER FILM, ZENTROPA SWEDEN, SNOWGLOBE, BUFO, LOGICAL PICTURES

大友克洋作「童夢」からインスピレーションを受けたと話題になっているらしいのだけど、未読なのでそこはよくわからなかった。ただ「AKIRA」で見られるスペクタクルな見せ方(人物を小さく、背景をデカくなど)はリスペクトされているように思えたし、インスピレーションされたんだね、ということくらいは「童夢」未読でもわかったかな。

この映画、今年公開の作品の中でもトップクラスに良かったです。「童夢」ファンではないし、さらに超能力ものとしても中々に静かな作品だったけど、素晴らしいと思えることがたくさんあった。語るぞ~


主人公はみな子供。団地という生活が画一化された集合住宅地の中で暮らす子供たち。ひとたび共用の遊び場に出てしまえば、彼らは「団地の子供」として個々の輪郭がぼやける。でも帰宅してパーソナルな空間に戻るとそれぞれの家庭環境が浮き彫りになり、「みんなと同じ子供」「とある家庭の子供」という二面性を行き来することになる。そしてその外と内でのギャップ、つまり家庭内で感じるストレスやそれによって起こる感情の起伏がキーポイントになってますよね。
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まずは本作における超能力という要素をちょっと解剖してみたい。

 本作で超能力を携えていると判明しているのは、アナ、アイシャ、ベンの3人。言わずもがな、アナは自閉症という分かりやすい要素を持っていて、家庭内でも(両親の子育てに愛があることは間違いないだろうが)対処すべき問題点として挙がっている。一方で妹のイーダに超能力が発現していないのも分かりやすい対比だ。その生い立ちを見ればアナに超能力が内在しているのは自明だが、ほかの2人はどうだろう。
 ちゃんと見ていればもちろんわかるんだけど、アイシャもベンも母親との関係性が問題のようだ。でも2人は善悪の観点でかなり対照的にデザインされていて、その違いも2人とそれぞれの母親との関係性に見つけることができる。
 アイシャと母親との関係は決して悪くはないだろう。母親は何らかの苦難によって娘との生活を維持することが困難だと嘆くシーンがあったが、それとは別に娘に対する愛情が欠落しているとは思えない。そしてちゃんと愛情を注がれたがゆえの性格なのか、アイシャは母親が隠そうとする悲哀を敏感に察知するシーンが随所にあった。このアイシャの元来の特性が増長してシンパシー能力が発現したんじゃないかな。愛情が不足しているわけではないが家庭に問題があるという要素によって、アイシャは善の超能力者に成り変わった。


 一方そのころ。ベンは本当に不憫だ。。母親からのネグレクトを受け、愛情を知らない状態で育った背景が彼の超能力発現に直結していることは言うまでもない。ただ、ベンはその家庭環境を開示せずとも育める友情を手にした。団地という場が子供たちの個性を画一化してしまうからね。
 しかしベンが超能力を悪用してしまう理由は、ほかの3人と仲良くなったことに他ならない。彼は親からの愛を知らないため、心がもろく善悪の判断基準もまだ発達していない(児童心理学とかよく知らんけど、この考察に筋は通っているとおもう・・)。アナもアイシャもイーダも家庭環境はベンのそれほど悪くはない。だからアイシャとイーダは一般的な子供たちと同じ共感覚を恐らく持ち合わせていて、「ベンはクソだ」という伝言もただの冗談のつもりだったのだろう。でもベン本人は、そうはいかない。もしかしたら母親から似たような罵倒を以前にも浴びせられていたのかもしれない。それがフラッシュバックしてしまったのか、頭に血が上ってアイシャに手を上げるのも納得できる。


 つまり、親や家庭に対して感じる特別な感情が超能力発現のトリガーだとすると、それが増長していく過程では周りの子供たちとの関係性も重要になるということ。最初に書いたような団地というクローズドな世界での、内と外との往来。接する人々との関係性や個々人の要素が家庭の内外で著しく変化し、子供たちはその負荷に耐え切れない。その感情の起伏が善悪のフィルターを突き抜けるくらいの行動原理となって、本作ではベンがその能力を悪しき目的で発揮してしまうのだ。
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 超能力の出自はどの作品でも感情と密接に関係していますよね。それはもはや界隈の基本ルールだ。本作では子供たちのその感情の描写が本当に丁寧に描かれていたのが、個人的な最高傑作だという評価の由来。

 ベンが母親を殺めてしまった夜、帰宅してドアにもたれて慟哭するシーンがあった。並大抵の子役ではあそこまでの苦しみ・悲しみを露出することはできないだろう。母親に害された生活と、団地の子供たちとの軋轢。その間に挟まれて能力を自制できなくなっていく感情の荒波の描写が本当に悲痛で、秀逸で、思わず涙が流れてしまった。
 ベンの感情の大波が災いとなる傍ら、アイシャと共に善の象徴として描かれるアナはベンのストッパーとして立ちはだかる。しかし彼女は自閉症を患うためにわれわれがその大事な感情を読み取ることはできない。ベンに立ち向かう様子は何度かあったが、最終局面にこそ本作で最も重要なアナの感情がイーダのそれと共に可視化されたシーンがあった。


 そして、それを語る上で欠かせないのが、唯一超能力が発現していなかった主人公イーダの存在だ。彼女は物語冒頭にベンと知り合った当初、色々な悪戯や超能力のテストなど、特に善悪の判断能力が突出している様子も無いままにベンと交友を深めていく。
その後アイシャが殺害されたこと皮切りに、イーダはベンを止めることが第一の行動を取るようになる。その結果陸橋からベンを突き落とすという凶行に走ってしまう。それは子供ゆえ短絡的で倫理感の伴わない問題解決だった。イーダは常にニュートラルで変化しやすい、普通の子供として描かれている。だからこそベンを突き落としたその心理も非常に分かりやすく、それが超能力を用いない方法だったことも明らかだ。

 だがベン本人からすると、それは友人から向けられた悪意以外の何物でもない。彼の心は壊れてしまう。もう全てを破壊することでしか満たされない大きな心の穴が見える。イーダはその巨悪とどう対峙したか。本作のクライマックスへ。
 時に蛮行をしでかすイーダが最終的に選択したのは、アナに寄り添うこと。アイシャ亡き局面でアナを守らねばと決意した彼女にも超能力が発現したとみられるシーンがあった。大ピンチに骨折した脚では間に合わないという状況が、それほどに彼女の感情を大きく爆発させたのだろう。イーダが姉の手を取った瞬間、アナの能力は最大限まで増幅する。超能力を潜在的に秘める子供たちなのだろうか、その力の大きさは池を中心に周りの子供らにも知覚させたほど。イーダのその時の感情を言葉で汲み取ることはできないが、「妹が手を握ってくれている」という安心感があった。その強い連帯感は、この物語を終わらせた姉妹の超能力の根源的な原理そのものであることは間違いない。

 繰り返すが、イーダは普通の子だ。後ろめたいことは親に隠す。障害を持つ姉に悪戯をするし、ベンが殺した猫の死骸をじっと見つめ、罪悪感のようなものを感じる。それらは常識の範囲内で「子供のしでかすとんでもないこと」に収まっていると言って何ら問題はないでしょう。

 そんな彼女の、超能力を発現させるほどの感情の特異点とはなにか。それは「姉アナを庇護する」という強い義務感だ。イーダは日常的にアナを見守る役を与えられていた。それでも両親は彼女の頑張りをあまり注目してくれない。家庭内で議題に上がるのはいつもアナのことばかり。自分はこんなにも面倒を見てあげているのに!という不満は、時にアナへの悪戯に変換されてしまう。目に映る悪戯はとても痛々しいものだが、イーダのその行動心理自体を紐解いてみれば、急に人間的なものだなあと感じざるを得ない。
 そう、イーダの心中には姉を守るという義務感・正義感がある。しかし、アナの発語を両親は中々信じてくれないし、ついには心を通わせられるアイシャもいなくなってしまった。そういった状況で訪れる最悪の局面でアナを助けられるのは自分しかいないんだという強い確信が、姉妹がもたらす超常的な力に変貌した。そう思った。

 ベンを倒して帰宅するイーダが思わず母親に抱きついたあのシーンが記憶に焼き付いている。これまでのことを懺悔するような、謝るような、それでいて「もう大丈夫」と言い聞かせるような。「善悪の判断がつかない子供たち」という説明をよく見かけるが、その心理描写においてイーダが人としてひとつ成長を遂げた美しいラストだと思う。
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 制作陣が子供たちの心理を深く洞察したからこそ実現できた物語だと思います。本当に丁寧で、リアルで、苦しかった。パンフレットにも書いてあったけど、監督が見惚れた子役に合わせて設定や脚本を修正したとのことで、いかに子供たちの描き方を最優先にしてこの映画が作られたかが分かる。
 「善か悪か」という行動に伴う基準とはまた別に、「善人か悪人か」という為人もまた大事な要素だ。「善と悪、善人と悪人」へ雑にカテゴライズすることはなく、成長過程の子供たちがどのような影響を経てその感性を育んていくのか、その描写が緻密なのが良かった。大人には感受できない美しい幼心の動揺流転を超能力で表現し、静謐なヒューマンドラマに見応えと奥深さを演出した。大好きです。


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