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「できる」が偉い世界で、「できない」僕たちの取るべき行動〜仏教と実況とウメハラと〜



できない僕らと仏教

できないことがたくさんあるなって思うと辛いし、自分のできなさに直面する時はもっと辛い。
そんなできない自分と将来を見比べてみるとどんどん辛くなっていく。
「こんな楽な負荷の状態でもできないならもう無理じゃん」とか、「どうしてもダラダラしてしまう」とか考えて、やばいって思ってまた辛くなる。
でも「これはやったし…」とか、言い訳をたくさんしている自分に気づいたりもして、さらに辛くなるし、こういうモヤモヤを抱えていると行動が生まれなかったりする。

あまりに辛いので仏教に関する本を読んでみた。
個人的には歎異抄と言う本が好きで、昔病んでた時に読んでいたけど、今回はもう少しわかりやすい本とか瞑想の本を読んでみた。

本を読んでいくと、教えって結構厳しいかも?と思うようになった。
仏教って、自分を楽にしてくれるものだと思っていたのだけど、よくよく考えてみると、修行というのは極めて「できない」に厳しい概念だと思う。
釈迦と僕らで明確に才能に差があって、釈迦はできる人間で、僕らはできない人間だというのも、仏教の前提にあるし、前世という概念を引き合いに出して、前世のせいで今そういう状況なのだという、えげつない自己責任論が出てくることも場合によっては存在しそう。

『できないから苦しいのは当たり前で、もうそれはしょうがない。
世の中は変化するもので、そもそも僕らは存在していないのだ。』
という形で解決するのが、よく聞く仏教のお話である気がする。

でもやっぱり納得できない。
仏教の理屈はわかるし、その通りな部分もあると思う。
でも自分がないなら何もしなくていいって気がしちゃうし、その中でも頑張らないとダメだよみたいなのは、正直わからないし、頑張らないとやっぱりダメならできない僕らには優しくない考え方だ。
浄土真宗とかは念仏唱えたら助かるらしいのだけど、それともまた違う。
僕たちは世俗の世界で助かりたいと思ってしまうものだからだ。

できなくてもいいはずなんだが…

できなくても倫理的にはなんの問題もないはずで、多くの人が障害者の命の重さと健常者の命の重さを比べてその重さに違いはないと答えると思う。
倫理的に、道徳的には間違いないと思う。
でも現実ではどうだろうか。
確かに、今の時代は社会保障があって生きていくことができているのだけど、剥き出しの世界に放り込まれれば、たちまち生きていくことができなくなると思う。
また、生きられても誰かの助けが必要なことに、辛さを感じてしまうこともある。
僕は障害は持っていないけど、病気を持っているから、もしこの補助がなくなったらどうなるのだろうとか、剥き出しの世界が、能力主義の世界が始まってしまったらどうなるのだろうと思ってしまう。
さらに言えば現実問題として「できない」はいろんなところに満ち溢れていて、仕事ができない、バイトができない、勉強ができない、そもそも就労できる条件が限られているとか、「できない」に優しい時代であってもそれなりに厳しい現実が存在している。
「できない」僕たちが向き合わないといけない現実は、「普通」より過酷だろうと思う。
ただ一方で、「普通」の人もまた、「できない」人が悩むようなことでも悩むのであり、「できない」人との差はそういったことに出会う回数の問題かもしれない。
しかし「できない」ことの回数が増えると、自ずと会社は「できない」人を切ろうとする。
心の面でも、能力面でも、社会面でも、経済面でも、あらゆる意味で手詰まりのように「できない」人視点では思えてしまう。

できないことが多くても。できることが必ずある。

格闘ゲームの伝説的なプロゲーマー、ウメハラはゲームを仕事にするまでは職を転々としていたらしい。
バイトで失敗をしてしまう人に強い共感をしていたから、とても意外だった。
とんでもなく「できる」人は別の方面では「できない」人だったのである。
東大卒のときど(まさにハイスペックな「できる」人間)を圧倒する天才ウメハラでさえ、バイト先ではお荷物だったのである。
できない経験をしているのはウメハラだけではない。
ここで「できる」人としてあげたときどもまた、大学院に行けなくなるという「できない」を経験していたりする。

できないことは誰にでもある。
人間皆障害者である。
でもその中で「できる」ことが必ずあるのだ。
そしてそれはウメハラのようなとんでもない偉業ではないだろうし、ときどのように東大に入ることでもないだろうし、管理職になることですらないかもしれない。
しかし、身の丈にあったできるがどこかに必ず眠っていて、その「できるの種」が見つかれば、ほんの少しだけできたことがあったら、ウメハラも言うように「自分を甘やかしながら働け」ば良いのだ。
そうして甘やかしながら自分を訓練していけばいいのである。

問題解決!とはいかないだろう。
それでも、この訓練がしんどいんじゃないのかと思ってしまうからだ。
なんとも業の深い生き物である。
ただ現実問題として、訓練がしんどくてやめてしまうこともあるし、訓練をしなければ上手くならないのも確かなのである。
ではどうすればいいのか。

「できる」を訓練中は辛いことを消す。

いろんなものと比べてしまって辛いとか、つまらなくて辛いと言うこともあるかもしれない。そう言ったときは、自分がやっている行動をそのまま実況中継すると良い。どこかの上座部仏教の長老が本で書いていた。

実際やってみると、頭の中にそれまで「やらなきゃ、やらなきゃ、やらなきゃ」でいっぱいだったはずだったのに、文章を読む時とかに「読んでる、読んでる、読んでる」と呟くだけで、そういった心配が出てこなくなる。
心配が出てきたら、「妄想、妄想、妄想」と言って、その心配が出てきたなと言うことを認識して、元の行動に戻れば良いのである。
本を読み出して「読んでる、読んでる、読んでる」とか、歩きながら「右足、左足、右足」とか、プリンターでコピーしながら「ボタン押す、ボタン押す、紙合わせる」とか心で言えばいいのである。
つまらないなと思い始めたら、「妄想、妄想、妄想」と言ってまたただ実況を始めるのである。「数字入力する、商品移動する、整理整頓する」と言う感じで。

人から怒られたら「音、音、音」と言うことで恐怖とか心配とか不安とかまでいかせないことも可能だそうである。
怒っている人の顔が苦手なら、ホリエモンとかの顔を見ながら「顔、顔、顔」と唱えてみたり「光、光、光」と唱えると馬鹿馬鹿しくなってくる。

僕も実際、これをやってみるまでは、皿洗いとかは聞きたいものがなくてもラジオをかけていたり、youtubeを流しっぱなしにしたりしていた。
つまらないと思っていたからだ。
でもとにかくそういう「妄想」が出てきたら、すぐに「座っている、座っている、座っている」とか心で唱え始めてとにかく、考えないようにするのである。
そうすると、もうよくわからないけど、皿洗いができたりする。
タイパとかコスパとか言われる時代にいると、なんだかこれらの瞑想を無駄で、刺激の少ない、面白みのないことだと思われるかもしれないが、結局、ライブハウスとかフェスでぶち上がるのも頭を空にしたいからだったりするし、お笑い見て笑いたいのもそれに近い。
ポジティブな感情を感じながら頭を空っぽにしたいのだ。
その点、この実況は頭を空っぽにすることはできるし、少なくとも、ネガティブが頭の中にあるよりは、0が頭にある方がはるかに生きやすいと感じた。

あとガキ

こういった訓練をしていくと、いろんなことが客観的に見えてくるらしいのだが、詳しいことは僕も実況してから考えようと思う。
僕にとってはとても効果のある行為だと思うのでもしやってみたいと思ったら使ってみてほしい。

そして「できない」ではなく「できる」ができたら喜んで欲しいし、何もない1日をただ生きた1日を愛してほしい。
今まで僕は、「できないなら死ね」って、言われているような気がしてしまっていた。
今もそう思っている。
でもそんな社会は絶対おかしいと言い切るし、言い続けたい。

理屈はまだない。

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