見出し画像

春と狂気


今年も花の香りを薄めた風が吹く季節になった。
あちこちで緑が芽吹き、花々が淡い色を取り戻しはじめている。
しかし、どれだけの人が気づいているのだろう。
この春の営みにおいて、無視することのできない異様な存在が、巨塔のようにそびえていることを。

それは、狂気である。

春のもつ狂気性は、生々しいどころではなく、この世で表現できうる限りのリアリティをもってわたしたちに迫り来る。

古今東西の芸術家が詩や絵画をもって讃えるとおり、この季節は唯一無二の美しさをもつ。だが、マグマが岩盤を破って地表にあらわれるように、冬の間ねむっていた生命力が一気に噴き出す過程には、必ず副作用があるものだ。(植物の精力が人を害している点では、花粉症もきっとそう。)それこそが、春特有の不気味さをつくりだす要因でもある、と考えている。

わたしの思う、春のもっともグロテスクな部分、それは「聖母性」である。
なぜならそれは、ありとあらゆる場所から噴出し、むやみに萌芽しようとする命を、まるでやさしい愛撫のような、よい香りの風で覆ってしまうから。
わたしにはこれが、人が自らの狂気を誤魔化すときにつくる微笑みに思えてならないのだ。若しくは、神経質な息子を包む母親の、慈しみに満ちた眼差しだろうか。どちらもあまりに人間的で、決して自然と相容れることはないと、嘗てわたしが信じていた性質だった。

「ほんとうの狂気とは、最後までそうと露見しないものである」
どこかで誰かが言っていた。春の風が頬を撫ぜてゆくたび、わたしは自然が実は人の形と心を有しているかもしれないことに、そしてその事実に殆どの人が気づかず通りすぎてゆく“事実”に、ぞっと身を震わせる。
まさしく、不気味の谷現象以外の何物でもない。

-------------------

そういえば、以前twitterでこんなことを呟いた。

いつもの通勤経路、いつものオフィス街。
前を歩いていた女性のトレンチコートがビル風に吹かれて舞い上がり、真紅の裏地がはためいたとき、わたしは一つの真理を得た。
結局は、皆こうして爆発的な本性を秘めながら、無機質な毎日をやり過ごしているのだと。そしてたまたまその秘密が現れやすいのが、春という季節だったにすぎないのだ、と……


最後に、一つ。
すべての力を尽くして咲く花を見ていると、突然、何の変容も起きない自分がとてもちっぽけな存在に思えてくることがある。わたしは、それら薄桃色の襞と対峙したとき、春先に感じる焦燥感の正体、そして「春愁」という季語の本質へ繋がる細い管が、わたしと花の間にある生暖かい空気のなかに存在するのを、確かに感じるのである。

#エッセイ #コラム #日記 #春 #ライフスタイル

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?