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短編 「永劫少女」

1、影を売った少女

 光の満ちた午後、私は年の近い友人たちと、馬を駆って、遊んでいた。初めは幼心の対抗心からだった。誰が一番早く、あの丘に辿り着けるか。今では、誰がそんなことを言いだしたのか、思い出せない。私は風と共になる感覚がきらきらと眩しくて、どこまでだって走っていける気でいた。だから、いの一番に走り出して、得意になって、大はしゃぎした。誰も私に追いつけなかった。私はいい気になって、目的の丘に着いても、止まらなかった。馬の腹を蹴って、もっと早く、もっと遠くへ。
 馬の身体が揺れたのには、すぐに気付いた。黒毛のその子は荒い鼻息を立てて、前脚から崩れた。私は宙に投げ出され、空と大地が二回入れ替わってから、草原に叩きつけられた。地平線が何度も回転して、その度に、身体中を打ち付けた。
 ようやく止まったと思っても、すぐには動けなかった。少しでも身体を動かそうとすると、吐き気に襲われた。額の辺りから、何か垂れてきているのを感じたけれど、それを拭う力もなかった。
 視界が揺れる。友人たちの声にどうにか応えようと、手を上げたつもりで、一度気を失った。気が付いたのは、サチ、黒毛の馬のいななきを聞いたからだった。サチは苦しげな声で短く鳴いた。
 顔を上げると、サチは横になり、足をばたつかせて、もがいていた。サチの動きに合わせて、影がぐねぐねと内臓のように形を変える。そして、影だと思ったその染みは、サチ自身の血だった。サチは全身をくねらせて、苦しみから逃れようとした。まるで苦しみそのものが追いかけ、牙を立てる獣だとでもいうように、サチは足を出し、懸命に大地を蹴ろうとした。
 けれど、サチの前脚は折れていた。白い骨が露出して、足を動かすたびに血が噴き出る。折れて、尖った骨は、サチのお腹まで傷付けていた。サチが駆け出そうとすると、必ずお腹を掻いて、新しい傷を作った。
 彼女の美しい黒毛は、血と泥で汚れてしまった。あれだけ私が梳いてあげた毛並みは、サチが暴れるせいで乱れ、痛みと恐怖に悶える様と相まって、醜かった。
 私はよろよろと立ち上がり、何かに突き動かされるように、サチの側へ行って、その頭を抱いた。サチは何かを察したように、より激しく暴れた。
 私はサチの頭を撫で、スカートの生地を引き裂いて、帯状にした。サチの脚からは絶えず血が流れる。
「サチ、ちょっと苦しいけど、我慢して」
 帯状にしたスカートを、サチの口と鼻を覆うように巻き、強く締めあげた。
「今まで、ありがとう」
 全身でサチの頭を抑えつけた。それでも跳ねるサチの力には、到底敵わない。次第に激しさを増すサチの抵抗を、サチの首に抱き付くようにして抑え込む。ここで私が負けてしまえば、余計にサチを苦しめることになる。考えるのは、そればっかりだった。
 布を持つ手が痺れ始め、サチが蹴り上げる砂や小石が顔にかかり、集中が途切れそうになる。体重をかけるために、身体全体でサチへ覆いかぶさるようにする。前傾になった所で、私の額を流れているのが、汗ではないと気付いた。
 サチの頭を覆う布に、私の血が落ち、紅い染みになった。スカートの模様に滲んでいく血が、サチの涙のように思えて、声が漏れそうになる。まだ泣く訳にはいかない。奥歯を噛みしめて、布を持つ手に一層、力を込めた。
「ごめんね、ごめんね」
 ずっと心の中で唱えていた。何に対して、謝っているのかも分からないまま、ごめんなさいと言葉にした。しなければ、私は生きていけないと思った。いろんな思いが通り過ぎていくけれど、どれもこれも、私がサチに対して謝りたいと思っていることとは違っていた。本当の幸いについて、本当のサチの幸いについて、私は謝りたいと思った。
 サチの抵抗が次第に弱くなる。どうにか息を吐いて、力を抜いてしまわないように気を付ける。ずっと強く握っていたからか、手が震えた。いや、手が震えるのは、そんな理由じゃないはずだった。


 その旅人は、コートを目深にかぶり、夜でも青ざめた顔を隠していた。彼女は、村一番の大男よりも背が高く、力が強かった。その頃はちょうど冬籠もりの準備の季節で、食事と宿の代金の代わりとして、男たちの仕事をよく手伝っていた。
 秋の空は高く、夏の間中、生い茂っていた草花もすっかり馬たちに食べ尽くされ、丘から眺める一帯は赤のまだら模様になっていた。もうすぐ朝霜が降りるようになる。すると、私たちは南の方へ進路を取り、温かい土地で冬を越す。街に寄った時には、乳酪を売り、雑穀を買い足すこともある。赤ん坊が生まれた年には、祝いの品を買って、つごもりの日に一族全員で会を催し、新たな仲間の生誕を祝った。
 その年は、私の妹が産まれようとしていた。けれど、この一年は不幸続きだった。羊が狼に襲われ、二頭の馬が病で死んだ。母も大きくなったお腹を抱えて、内職に励んだが、状況はあまり好転しなかった。
 そんな頃に、旅人はやって来たのだ。よく働く旅人に、私たちは好意を持っていた。時間があると私たち子どもの相手もしてくれたし、テントに籠もりがちな母や年寄り連の話し相手も進んでしてくれた。要領のいい彼女は、次第に重要な仕事も任されるようになっていった。
 夜、私は草原に寝転がって、星を眺め、母と妹のことを考えていた。あの子は私の初めての妹だった。私は、あの子を心底憎んでいたのだ。あの子は、父と母の二人を私から奪った。二人とも以前のようには接してくれなくなり、妹のため、と我慢させられることが増えた。母が大きなお腹で、ふうふうと息を吐いて歩く姿を見て、私は全部、妹が悪いのだと考えていた。
 私が身を横たえる草葉は、露に濡れたように冷たかった。星は瞬きもせず、じっと地上を見つめ、夜の歯車を回し続ける。私はゆっくりと息を吐き、冷え切った草の中へ頭を埋めて、煮えすぎた鍋のような頭を切り替えようと思った。一度、冷静になりたかった。或いは、寂しさを忘れようとしたのかもしれない。妹を呪うなんて許されるはずがない、と私は知っていたのだから。
 旅人が近付いてきているのは分かっていた。草を踏む音がして、頭の上へ影がかかった。
「こんばんは、メアリーさん」
「やあ、××」
 その時、彼女は私の名前を呼んだはずだった。けれど、今の私は、その名前を憶えていない。それが何年前のことなのか、それすら分からないのだ。両親から授かった名は、永遠に失われてしまった。
「羊の番は?」
 そう、彼女はついに夜の見張りまで頼まれていたのだ。狼が羊を襲わないよう、一晩中、火を焚いて、家畜を見守る仕事を。
「少し休憩。村長の息子さんが夜食を持ってきてくれたんだ。そっちは何してるの? 風邪引くよ」
「少し、考えごと」
 メアリーは私の横に腰掛けた。
「それって、妹のこと?」
 まだ幼かった私は、言い当てられて、ひどく驚いたのを覚えている。
「どうして分かったの?」
「見てれば分かるよ。気に食わないんだろ?」
 私は素直に頷いていいのか、悩んでいた。
「不満で、でも心配。そうでしょ?」
 メアリーがそう言ってくれて、ようやく私は、うんと頷いた。
「大丈夫、きっと上手くいくよ」
 そう言って、彼女は大の字に寝転がった。
「星が綺麗だねぇ」
 ゆっくりと夜空を巡る星の旅路は、まだ始まったばかりだった。秋の澄んだ風が、星海を洗い流していく。砕けて散った星の砂が風に乗り、さらさらと音を立てて、丘を渡る。静かな夜だった。底冷えがして、冬の指先に触れられそうだった。
 私の家の方で火が灯った。
「××、どこにいる!」
 テントから父で出てきて、私を呼んだ。
「何だろう」
 父の呼びかけに応じてか、よそのテントからも人が出てきて、私の家へ集まっていく。
「早く行った方がいいかも」
 いつになく低い調子でメアリーが言った。
 テントに戻ると、お婆たちが灯りの中で忙しく動いていた。水が火にかけられ、中へ薬草が入れられる。揺らめく火の穂の中で、いくつもの影が交差する。女連は母の枕元に集まって、手を握り、汗を拭く。私がテントに入った時、男たちはお婆の手によって、外へ追い出されようとしていた。入口へ寄ってきた父は、やっと私に気付き、肩を掴んで、こう言った。
「妹が産まれる。母さんを助けてやってくれ」
 父たちがテントの外へ出されると、私は母の元へ呼ばれた。母と一番仲良くしていた村長の奥さんが、私をじっと見ていた。
「手を握ってあげて」
 彼女から渡されるようにして握った母の手は、じっとりと汗が滲み、不思議なほど温かかった。目を瞑り、力んでいるのか、痛みに耐えているのか分からない母の表情を見て、私はふわふわと揺れた。お婆たちが歌を唄って、調子を取る。母はその歌に合わせて、呼吸した。息を吸うと大きなお腹が膨らんで、巨大な芋虫みたいだった。
 痛みの波が引いて、やっと息を吐いた母が、
「元気な妹を産むからね」
 と言った。それは多分、私に向かってかけられた言葉だったんだと思う。けれど、その時の私はそうは思わなかった。母が力の限り握る私の手は、白くなっていたけれど痛い訳ではなかった。ただ、母とか細く繋がっている。目の前の景色は、だんだんと遠くなり、母と私の手が永遠に思える長さまで伸びていく。私は自分が今、真っ直ぐ立っているのか、自信がなかった。
 お婆たちは唄い続ける。村中の母親が母に声をかけ、世話をする。そこに一人、私はぽつんと立っていた。
 火には油が注がれ、短くなった蝋燭の火は、より太く長いものへ灯し継がれた。
 母の枕元へは、絶えず人が入れ替わる。清潔な布で汗を拭くと、干した蜜柑の皮を浸した水を、また別の布に浸みこませて、母の口へ運ぶ。痛みが抜けると同時に水を飲ませ、それが済めば、舌を噛み切らないよう、猿ぐつわがあてがわれた。母の荒い息が、時を刻むようにゆっくりと繰り返す。テントの隅では、力尽きた女たちが死人のように眠っている。お婆たちもふらふらと腰を下ろしては、寝に就き、悪夢にうなされては飛び起きた。それでも、何人かが持ち回りで母の看病をし、弱気になりがちな母に声を掛けた。また、母も気を失った。何度も気絶するたびに、顔に向かって水を吹き、薬を嗅がせた。
 私には、到底理解できなかった。まるで、母を苦しめるために、そんなことをしていると思った。妹なんて産まれてこなければいい、と何度も思った。
 そして、夜が明けた。
「よく頑張ったわね、少し休みなさい」
 私はそう言われて、テントから出された。中ではまだ母が闘っていた。
 父は村長のテントにいた。父は私を見るなり
「産まれたのか?」
 と聞いてきた。私が首を振ると、肩を落とし、息を吐いた。いつもは大きく見える父の姿が、その時だけは小さく見えた。深く息を吐くごとに、父の身体が萎んでいく気がして、私はテントを出た。あんな父の姿は見たくなかった。父を非難する気持ちもあった。母があんなに苦しんでいるのに、と。
 外は真っ青な快晴だった。雲一つない空に、寒いくらいの風が吹き付けて、秋の終わりを実感させた。他の男たちはいつものように仕事に励んでいて、母がテントで妹を産んでいる最中だとはとても思えなかった。ぼーっとした頭は熱を持っていて、夢と現実の境が曖昧になる。私は夢を見ているような気がした。草原に寝そべって、星を眺めている間に眠ってしまったんだ。あるいは、私は歩いている最中に眠ってしまって、本当は妹が産まれたのに、夢の中で母がまだ頑張っている気でいるんじゃないか。
 なんて、妄想を笑い飛ばして、私は男たちが炊き出したスープを一杯もらい、テントに戻った。
 早く済めばいい。妹が産まれれば、また昔みたいに可愛がってもらえる。そうだ、今までが夢みたいなものだったんだ。妹と私、父と母、四人で幸せに暮らせる。
 気付けば、私はテントの入口でへたり込んでいた。手にしていたスープが床にこぼれている。騒々しい気配がして、視線を上げると、母が血を流していた。足の間からだくだくと溢れる血は、絨毯を侵して、真っ赤に染め上げた。だらしなくぶら下がった爪先から、紅い滴が垂れる。母の白い太ももには、幾筋もの線が出来上がっていた。
 私に気付いた誰かが、叫ぶ。
「あの子を外へ出して!」
 私の目をふさごうとする手から逃れるように、私は走り出した。
 行き先は決まっていた。
 メアリーのテントへ着くなり、私は叫んだ。
「お母さんを助けて!」
 助けを求めたのが、村の大人たちでなく、どうしてメアリーだったのか。きっと、あの時の私は知っていた。村の大人たちでは母を救えないことを。だから、あの日、私の運命の環がかちりと音を立て、動きだした。
 メアリーは毛布をかぶり、今まさに床に就こうという所だった。
「どうしたの?」
「お母さんが死んじゃう……」
 そう口にして、身体が固まった。その場に棒立ちになって、一歩も動けなくなる。指先から血が凍っていくみたいだった。きっと血の気が引くというのは、こういうことを言うんだろう。指先が冷えて、感覚が鈍くなり、胸がきゅっと苦しくなった。
「落ち着きなよ。君のお母さんがどうかしたの?」
「お母さんが血まみれで、足の間から真っ赤になって、妹がーー」
「ーー待って」
 メアリーが手をかざして、私を止めた。水瓶から水を掬うと、それを私によこした。
「飲んで。それから、話して」
 私は唾を飲み込んで、頷いた。両手でコップを受け取って、一口ずつ飲み下す。そうしないと息が苦しくて、水が飲めなかった。一口含んでは、息を吐き、また一口飲む。先に口を開いたのは、メアリーだった。
「君のお母さん、今、妹を産もうとしている最中なんだね?」
 私は頷く。
「昨日の騒ぎはそういうことだったのか。で、××は私にどうしてもらいたい訳? 私は出産なんてしたこともないし、手伝ったこともない。お婆たちに任せておくしかないんじゃないの?」
「それじゃ、駄目なの!」
「……どうして?」
 テントの中へ、馬のいななきが聞こえた。
「私が妹を殺したから」
 メアリーは薄暗いテントの中で干し肉をかじっていた。テントの中は暗く、私が来た時に開け放った、入り口から差し込む光だけが唯一の光だった。
「妹は、今産まれてくる真っ最中でしょ」
 メアリーは私の目を逸らさずに見ていた。当然、彼女は怪訝な顔をする。私が何か子どもらしい勘違いをしているとでも思っているのかもしれない。けど、そうじゃない。私は妹を殺したし、殺したいと思った。いなくなればいい、私は母のお腹が大きくなっていくのを冷たい目で見ていた。美しい母の身体がどんどんと醜くなっていくのを見るのは、辛かった。私がその果てに産まれたということさえ嫌悪した。きっと母は、私が産まれる前には、今よりもっと綺麗だったに違いないのだから。
「君が殺したから、君のお母さんと妹は死んじゃう訳だ」
 私は頷いた。
 噛み続けていた干し肉を飲み込んで、メアリーはもう一度言う。
「君は、私にどうしてほしいの?」
「お母さんと妹を助けて。私にできることなら何でもするから」
 足元を見つめて、メアリーが考え込む。
「何でも、ね」
 立ち上がったメアリーは蝋燭に火を灯し、入り口を閉め切った。テントの中をか細い蝋燭の火だけが照らす。
「私は、あるものを探して、ここまで旅をしてきたんだ」
 そう言って、メアリーはコートを脱いだ。
「私は、私にぴったりの影を探してるんだ」
 メアリーの肌は死体のように青白く、つぎはぎだらけだった。左右で形の違う手や足、腰と胸は長さを合わせるために、いくつもの身体が縫い合わされていた。手袋の下の指は五本揃っておらず、親指が二本あったり、薬指が足りなかったりした。
「見てごらん。私には影がないでしょ?」
 灯りの前に立ったメアリーの、その後ろには、確かに影がなかった。
「私を作った人は、私に生命を与えてくれたけど、影を作ってはくれなかった。ずっと探していたんだよ。だから、××、君の影を私にちょうだい」
「……それで、お母さんは助かるの?」
「助けてあげる」
 メアリーはコートを羽織り直した。身体を見られるのは、あまり好きじゃないのかもしれない。
「君の影と、君のお母さんと妹の生命を交換だ。どうする?」
 迷いはなかった。比べるまでもない。
「分かった。交換ね」
 いい子だ、とメアリーは言った。

 テントは閉め切られた。外から光が入り込まないよう目張りされ、中央に置かれた蝋燭の火が真っ直ぐに燃えている。私は灯りの前に立たされて、メアリーの準備が終わるのを待っていた。
「さっき、メアリーは作られたって言ったけど、あれはどういう意味?」
「どういう意味も何も、そのままだよ」
 メアリーは作業を続けたまま、話した。
「私を作った人は、希望に満ち溢れた若い科学者だった。亡霊や悪魔を呼び出すことに夢中になるような少年が、そのまま大人になったような人でね、彼は十七になると大学へ行き、本格的に学問の世界に身を置くようになった。そして、そこで私の兄さんを作り上げたんだ」
「結婚したの?」
「まさか、違うよ。彼は死体を繋ぎ合わせて、新たな生命を吹き込んだんだ。けれど、それが彼の不幸の始まりで……」
 メアリーは煙草を巻き終えると、火を点けた。一口ふかして、煙を吐くと、それを私へよこした。
「吸って」
 その煙草は、大人たちがいつも喫んでいるものとは匂いが違った。
「さて、彼は研究の末に、人工的な生命の誕生という、これ以上ない偉業を達成した訳だ。でも、彼はその成功の象徴、兄さんを愛さなかった。兄さんは私と同じように、醜い容姿をしていたからね」
 メアリーが香炉に火を入れると、白くて重たい煙がゆっくりと床へ下りた。
「兄さんは誰からも愛されなかった。行く先々で拒絶され、ついに神に祈った。そう、自分を作り出したたった一人の人間に。兄さんはこう考えたんだ。自分と全く同じ生命を彼に作ってもらい、そして、自分たちだけで暮らそう、と」
 テントに煙が溜まって、中は薄もやがかかったようになる。息苦しいくらいなのに、蝋燭の火はまだしっかりと燃えていた。
「私が作り出されたのは、とある島のボロ屋だった。彼は私が起き上がると、肩を掴んで、こう言った。私はあの怪物を止めなければならない。だが、私一人の手で、あの怪物に敵うとも思わない。だから、私はそのためにお前を作った。もし、私が怪物を殺せなかった時、その役目はお前が果たしてほしい、と。彼が出て行った後、私は廃屋で書置きを見つけた。注意深く探さなければ、見つけられないような場所にね。多分、彼なりのやさしさだったんだと思う。お前が望むなら、どうか彼と共に生きてあげて欲しい、そこにはそう書いてあったんだから」
 そこでメアリーは口をつぐんで、私に服を脱ぐよう言った。
「……彼は、兄さんに殺されるつもりで旅立ったんだよ。兄さんを作り出した罪を背負うためにね」
 彼女は軟膏を手に取り、私の身体に塗り始める。あまりにメアリーの手が冷たいからか、触れられた所が火照る気がした。
「二人は北へ向かう船に乗り込んだ。そこで何もかも終わらせるために。私が追いついた時、決着はついた後だった。彼は熱病で死に至り、兄さんは海に身を投げた。私だけが残されたの。使命を果たせなかった、愚かな私が。
 それ以来、私は旅をしてる。彼はわざと影を作り忘れたんじゃないかって思うことがある。いつまでも苦しみ続けるよう、呪いをかけて」
 さあ、話はおしまい、とメアリーは手を叩いた。
「さてと、準備も整ってきたね」
 そこで、とメアリーが話を続ける。
「そこで、私は君に名前をあげたいと思う」
「どうして?」
「私は君から影をもらう訳だ。そこで私もお礼に何か差し出さないとね。物事にはどんなことにも重さっていうものがあるんだ。ちゃんとそれがつり合うようにするんだよ」
 メアリーはもう一本、煙草に火を点ける。私と交互に煙を喫んで、深く息を吐く。
「名前、何にしようか」
「何でもいい。メアリーがくれるなら」
 あはは、可愛いこと言うね、と言って、メアリーは煙草をもみ消した。
「それで、私は何をすればいいの?」
 メアリーは、大丈夫、もう少し待ってて、と言った。
「すぐに効いてくると思うよ。火が消えないように見ていてくれる?」
 言われて、私は蝋燭の火をじっと見つめた。メアリーの言葉に何の疑問も抱かなかった。言われるがままに、身を屈めて炎を覗き込んだ。本当にしっかりとした火の穂だ。大きく膨らんで、真っ直ぐに立っている。あまりに動じない火は、その場で固まってしまった宝石みたいだった。
「ちゃんと息をして?」
 はっとした。自分が息を忘れるくらい、火を見つめていたことに、言われて気付く。蝋燭の向こう側を見透かして、景色の見え方に違和感を覚えた。世界がいやに鮮やかで、宙に舞った埃が揺れて、きらきらと光るのが見えた。
「これ、どうなってるの?」
 二度、三度と呼吸を繰り返す。すると、呼吸に合わせて、影が私の身体を上下するのを、くすぐったく感じ始めた。火が少しでも揺れると、身をよじるほど感じた。
「××は、笑い上戸なんだね」
 身を捻って、笑い声をあげる私にメアリーがそう言った。私の笑いが収まるまで、メアリーは待った。
「さて次だけど、両手を広げて、十字架に影を合わせて」
 メアリーは小さな子供ほどの大きさの十字架を壁に立てかけていた。十字架には既に釘が打ち込んであり、両手と足の三か所に、黒い染みが見えた。
「何するの?」
「影を捕まえておくの」
 その十字架に自分の影が磔にされる所を想像して、手の平がむず痒くなった。いかに影が苦しんだ顔をしても、それは私には関係ないんだ、とは思えなかった。
「その次は?」
「大丈夫、あとは私がやるから」
 そう言うと、メアリーは大きな裁ちばさみを持ち出した。彼女は鋏を腰に差し、高炉の煙を私の全身へ浴びせた。甘い香りのする油を額に塗り、祈りを捧げて、十字を切った。そして、十字を切ったその指で、私の肌に触れた。メアリーの青白い肌は冷たくて、触れられた所は鳥肌が立った。軟膏を塗った時とは違い、今度は身体の輪郭をなぞるように、私の身体を撫でていく。指は首筋に始まり、肩、指先、腋と来て、脇腹、腰と下がっていく。どんどんと敏感になっていく私の肌は、閉じたテントのわずかな空気の流れさえ感じ取る。ぴんと立った産毛は、天敵に身を晒した毛虫のようにざわざわと騒ぐ。メアリーの指は、足の外側を撫で、爪先まで行って、折り返した。
「力を抜いて」
 私は言葉の通り従った。息苦しさに胸を開いて、深呼吸をする。指が、立ち上がった産毛の一本一本を確かめるように撫で上げていく。メアリーが初めに触れた首周りは、次第に熱を持ち始めた。その熱が身体中に巡るようで、メアリーに触れられていないはずの、背中や頭、果ては内臓までが、ぽかぽかと膨張を始めていた。熱はゆっくりと回り、私の中心に渦巻く長い管が、私の下腹部で痛いくらい疼いた。頬の辺りが、眠気を誘うように熱い。全身が煙と熱に包まれて、ふらふらと倒れそうになる。このまま後ろに倒れ込めば、私は影に飲み込まれて、消えるだろう。ぶよぶよと形を失った私の身体は、きっと影とは同じ形をしていない。
「息を吸って」
 メアリーの言葉に、意識が我に返る。
「痛いと思うけど、最後まで立っていてね」
 私の影に、メアリーが鋏を入れた。


 私が次に目を覚ました時、全ては終わっていた。壁には釘を打ち付けられた影が蠢いており、母は無事に妹を出産していた。痛みに身体を引きずりながら、妹の顔を見に行くと、母に似ず、猿のような顔をした赤ん坊だった。
 メアリーは祝宴の次の朝にはもういなくなっていた。行方は知らない。その後、西へ行ったのか、東へ行ったのか、もしくは既に死んでしまったかもしれない。どこかで彼女の噂を聞くこともなかった。彼女は私の影を手に入れて、どこでもない場所へ行ってしまったのだろう。
 一方、私は影を失くし、メアリーと同じように旅に出た。十四の身体はそれ以上大きくなりもせず、奇異なほどに青ざめた。白い肌は同性に褒められたが、両親は変わり果てた私を気味悪がり、手のかかる二人目の妹へ愛情を注いだ。
 影を失った日の夜、不思議な霊感を感じ、私は不死になったのだと悟った。
 私は少女の身体のまま、未来永劫、生き続ける運命なのだと。
 旅の途中、いくつかの戦場を見た。荒れた大地に人の血が河となって流れ、戦地を駆ける兵士は、たったの一突きで人形のように動かなくなる。それでも敵陣へと突撃する彼らの足元
には、数多の屍が降り、積もり、重なり、生への希求と懇願に手を伸ばす。
 そのどれもが、私には眩しく見えた。理から外れた私の身体は、傷付くことを忘れた。血を眺める機会はそれから幾度かあったけれど、自らの血を拝むことは決して叶わなかった。宿を借りた先で火あぶりにされ、投獄された牢で三年、水へ沈められもした。そのたびに、死に行く者が羨ましく思えた。
 そんな旅を、もう六百年も続けている。
 語り終えた時、目の前の青年は筆を止め、私の方を見つめていた。大戦の後、田舎から出てきたという彼は、作家志望であった。私の黒髪を気に入り、声をかけてきた所を、逆に私が捕まえた。メアリーも私と同じように、こうして物語を語ったのかもしれない。メアリーと同じ名の、とある小説家がいると知ったのは、あれから随分経ってのことだった。恐らく、彼女から名前を取って、メアリーと名乗っていたのだろう。
「さて、こんな話でも小説になるだろうか?」
 惚けていた青年が、はっと正気に戻る。手にしているメモと私を交互に眺めて、頭を掻いた。
「それで、メアリーからもらったのは、どんな名だったのですか?」


あとがき
冒頭で1、となっていますが、特に続きはありません。有料設定ではありますが、全て無料で読めるようになっています。
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