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大学入学の格差 メリトクラシーの限界

メリトクラシーという言葉があります。

以下、ベネッセ教育総合研究所の資料から引用します。
「メリトクラシーとは、もともとは、生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。それは、生まれや身分によってではなく能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるという、近代的社会編成原理を指す概念として用いられてきた。しかし20世紀以降になると、メリトクラシーは、単なる個人の業績にもとづく地位配分という原理にとどまらず、そのような人材の地位配分を人々が正統なものとして受け入れ、それによって社会に包含されるようになるという、平等化と社会統合の機能を有するものとしても、とらえられるようになった」

要は、「頑張れば誰でも成功できる。だから勉強して学力を身につけよう」というものです。

しかしながら、現代では頑張っても経済的に希望する大学に入学できない人もいます。

昭和50年の大学の授業料、入学金は、
国立大学は、36,000円、50,000円
私立大学は 182,677円、95,584円

平成元年には、
国立大学は、339,600円、185,400円
私立大学は、570,584円、256,600円

平成16年には、
国立大学は、520,800円、282,000円
私立大学は、817,952円、279,794円

となり、国立大学の授業料は私立大学に近づき、入学金では逆転してしまいました(文部科学省のHPから)。

さらに、最近の大学の授業は、パソコンが必需品になっており、スマホ、通信費もかかります。親元から離れ、地方から都市部の大学に入学すると、これに居住費もかかります。

奨学金の受給率は、大学昼間部で、
1992年度が22.4%だったのが、2018年度は47.5%となり、学生の半分近くが奨学金を受給しています。

このような経済的状況では、「頑張っても誰でも成功」できなくなりますが、国によって捉え方が違います。まだアメリカでは信じている人が多いようです。

サンデル教授の近著「The Tyranny of Merit(翻訳本なし)」において、ハーバード大学の学生の3分の2は高い所得層の出身、であること。アメリカ人の77%は、頑張れば成功すると信じている一方で、ドイツ人はその半分が信じていること。フランス、日本では、ハードワークは成功を保証するものではないと考える人がマジョリティだと答えている、と記します。

このような状況を打開するために、大学の授業料の無償化、給付型奨学金の整備、などと言っても、財源をどうするかという課題に直面してしまいます。

私は、同窓会組織の活用に一筋の光があると考えます。自分の卒業した高校に愛着がある人は、何らかの形でその高校に貢献したいと思っているかもしれません。そのような卒業生が拠出してファンドをつくり、卒業生による奨学基金を作るのです。

これは、私の夢でもあります。自分の名前を記したりするようなマネはしたくありません。あしながおじさんでいいので、卒業した高校に貢献できたらと思っています。

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