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リヒターのビルケナウの理解のためにヤスパースを読む

国立近代美術館でのリヒター展、ポーラ美術館での「モネからリヒターへ」に行ったことから、リヒターがマイブームになっていますが、特にビルケナウを観てからは、自分なりの解釈を深めたいと思い、関係する書籍を読んでみました。
1つは美術手帖。西野路代氏が「イメージと倫理の位相」という題で論じていらっしゃいます。
西野氏は、カール・ヤスパースの「4つの罪の概念」から「ビルケナウにおける倫理的問題(リヒターにおけるアウシュビッツの倫理的問題)」を考察しています。「4つの罪」とは、ドイツの哲学者であるヤスパースが「われわれの戦争責任について」で述べたものです。
西野氏の論考は、リヒターの罪の意識の位相として、このヤスパースの「形而上的な罪」を展開していますが、「形而上的な罪」についてはヤスパースの論考を引用しているものの、どのようなことなのか解説が少ないので、ヤスパースの本を読解するしかありません。


ヤスパースの本は1945年に草稿が出来上がり、1946年1月、2月に講義として講述され、その後に出版されたものです。当時のドイツは敗戦後のニュルンベルク裁判など、戦争責任を問う過程にありました。
米国検察官代表ジャクソン氏はその基本的論告の中で「われわれはドイツ民族全体の罪を問うつもりのないことを明らかにしたいと思う」と述べている(本書P87)ものの、「ほとんど全世界がドイツを弾劾し、ドイツ人を弾劾している。われわれの罪が憤激、恐怖、憎悪、軽蔑をもって論じられている(本書P49)」のでした。

ニュルンベルク裁判が行われた建物
法廷

これに対してヤスパースは「われわれドイツ人には、われわれの罪という問題をはっきりと洞察し、そこから当然の帰結を引き出すという義務が1人1人に課せられている(P50)」とし、4つの罪について理路整然と論じます。
1つ目は「刑法上の罪」、2つ目は「政治上の罪」、3つ目は「道徳上の罪」、4つ目が「形而上的な罪」です。
刑法上、政治上、道徳上の罪はイメージしやすく、分かりやすいのですが、最後の「形而上的な罪」は該当箇所を読んでも理解できず、ヤスパースが本書の最後で述べる「清めの道」「罪の清め」まで読み終えるとおぼろげながら分かってきました。
そもそも「形而上的」という言葉や概念自体、私の日常生活や仕事で使うシーンがなく、読み進めるのに難儀しました。

おそらくリヒターのビルケナウを創作した動機は「形而上的な罪」である程度整理できるのでしょう。
ある程度と書いたのは、リヒターの内心をヤスパースの論理に当てはめてみると、あるいはヤスパース風に解釈すると、ということであり、リヒターの内心はリヒター自身の言葉でしか分からないと思うからです。

ヤスパースの論考は隙のないぐらい理路整然としており、これがかえって論考の理解を難しくしていますが、「形而上的な罪」については、以下の論考が分かりやすいと思いました。
「不法や犯罪が行われているところに居合わせているのであれば(中略)、とにかくそういうことが行われ、しかもそこに居合わせて、そして他の人間が殺された今もなお私が生きながらえているという場合には、私がまだ生きているということが私の罪なのだということを私に知らせる声が心のうちに聞えてくるのである(P123)」

これがリヒターが「ビルケナウという到達点」に至った原点なのかもしれませんが、リヒターは1932年生まれで、ドイツが敗戦を迎えた1945年の時には13才です。ドイツ人たるリヒターは成長する過程で教育や世情の影響を受け、ドイツ人として向き合わざるを得ない、そしてそれを芸術作品として表現したのではないでしょうか。
ドイツ人達と戦争について真正面から語ったことはありませんが、この「形而上的な罪」は今を生きるドイツ人に空気のように巻き付いているのかもしれません。

ヤスパースは言います。「われわれ人間が今述べた形而上的な罪を脱することができるようになるとしたら、われわれは天使となり、他の3つの罪の概念は該当する対象を失うであろう(P57)」

リヒターのビルケナウの創作の動機を要約しているかのような記述です。

「われわれの戦争責任について カール・ヤスパース 橋本文夫訳 ちくま学芸文庫」
「美術手帖 2022/7 美術出版社」

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