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時を経て成立するもの

金木犀が香り始めると、決まって思い起こす情景がある。高校のテニスコート脇の通路だ。
テニスコートと校舎を隔てるそこに背丈ほどの高さの金木犀が生垣のように植えられていて、秋口になるとオレンジ色の花を咲かせた。部活の行き帰りに息を吸い込みながら、なぜ中学生まではこんなにいい香りにまったく興味がなかったのだろう? と思った記憶がある。
金木犀も通路もリアルに目の前にあった時代は3年間で終わり、卒業してからは、秋がやってきたなと思う間もなく漂ってくる金木犀の香りに誘導されて、あのときの校舎とテニスコートの風景が必ず湧いてくるようになった。卒業後、それはずっと変わらない。

音楽や道具や食べ物などにも似た体験が生まれる。時には、記憶の中にあるにおいと音と味がセットでよみがえることもある。
鼻(におい)の記憶、耳(音)の記憶、目(ビジュアル)の記憶、口(味)の記憶、指先(触感)の記憶といったものが、実際の場面を離れた後に生まれてくる。記憶とは、リアルを喪失した代わりに五感の貯蔵庫から取り出すことのできる再生アプリなのかもしれない。

なぜそんな機能が私たちには備わっているのだろうか? そこが大事な気がする。
そして、知りたい答えは、生理学的な正しい話なんかじゃなくて、自分にとって納得できるものがいい。正しい答えが分かってしまったら記憶がよみがえるたびにつまらないことをしている気になってしまうから。
私たちは主観というフィルターを持ち合わせて生きている。正しいとか間違っているとかを追究し続けるよりも、自分にとって意味のあることかどうかを大事にしている。「生涯、このような食事を摂っていると長生きできます」と提示されたメニューよりも、その時々で「お財布にも優しい自分の食べたいもの」を直感で選ぶことのほうが楽しい。正しさよりも納得感が価値の上位にあるからだ。

だから自分の納得できる記憶の理由を探してみるといい。
なぜ二度と体験できないことを記憶という代替方法で蘇らせる機能が私たちに備わっているのか? 
私には正解は分からないけれど、記憶という過去をよみがえらせる機能を人が持っているのは、きっと何もよみがえらない人生はつまらないものになってしまうからだ。「このにおいはあのときの……」「ああ、これと同じ味を昔どこかで……」そうやって今と過去がつながることで、確かにあれからここまで生きてきたのだと言う足跡を見ることができる。他の誰でもなく自分自身でその歩みを称えることができる。それが記憶から私への本質的な問いかけであるような気がする。
そして、この記憶というもののおかげで私はやっと何かを成立させることができているのではないかとも思う。リアルな体験はすでに離れてしまったけれど、記憶のおかげでやっと完結させることができた、今ここに至って過去からのことを整えることができた、あのときの自分と今の自分をつなぐことができた、というような。
人には、リアルな場においてだけでなく、時を経て成立しているものがあるのだと思う。親子関係を含む人と人との関係においても、失敗したことも含めて自分自身の選択に関しても、たとえ後悔は消えなくても、時を経たことでその関係が成立し直される場合があるというような。
それは正しさなどの話ではなく、そのようであった自分を納得できるかどうかの問題になる。
金木犀の香りに、何かを納得したかった自分が含まれていることもある。
 

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