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「受験はゴールではない」はなぜ綺麗事に聞こえるか

高校で教員をしていて、気づいたことがあります。
それは、「受験勉強」と「学校の勉強」に対する認識が学校側と生徒側でズレる理由です。

皆さんは、この2つの「勉強」の関係について、どう考えますか?

「受験勉強と学校の勉強は別物」
「学校の授業だけでは受験に合格できないから、予備校に通う必要がある」

一般にはこうした考え方が散見されます。
多くの人は、「受験は受験、学校は学校」と割り切っているように見えます。

これに対し、学校の先生は、

「学校の授業はただの受験勉強よりも大事なことをやっている」
「学校の授業も頑張れないやつは受験も社会に出てからもうまくいかない」
「学校の授業は受験に繋がっている」

みたいなことを言いがちです(内部からの偏見)。

こうした、学校側が標榜する「学校>受験」の論調を内側から見ている僕が気になったのは、

「なぜ学校側も『学校の勉強』と『受験勉強』を別物だと考えているのだろう」

ということです。
上記のイメージ意見でいえば、

「学校の授業はただの受験勉強よりも大事なことをやっている」
「学校の授業も頑張れないやつは受験も社会に出てからもうまくいかない」
「学校の授業は受験に繋がっている

どことなく、言葉の端々から「学校の授業は受験なんかよりも高尚で、奥深いものなんだ」という尊大な意識を感じます(あくまで偏見)。

「なぜ、学校の勉強=受験勉強だと言い切れないのだろう」

というのが、僕の率直な疑問なのです。

さらに、そこから派生して、
「なぜ学校では受験対策=過去問研究になってしまうのか」
という疑問も浮かびます。

今回は、「受験勉強」と「学校の勉強」を区別する意識の一端を考察し、タイトルにあるとおり、学校もしくは頭のいい大人たちが声高に言う

「受験はゴールではない」

という綺麗な言葉がなぜ空々しく聞こえてしまうのかについて考えます。

受験勉強≠学校の勉強?

まず、そもそも「受験勉強」と「学校の勉強」はまったくの別物なのか。
そんなはずありません。
なぜなら、入試で問われる知識や思考の範囲は、必ず学校教育の範囲に収まっているからです。

では、なぜ別物だと感じられるのか。

結論からいうと、
多くの人が「学校の勉強」が目指すものを知らず、また何かを目指していることすら意識していないから
です。

この意見を理解してもらうために、論理学の考え方を使って、我々が「受験勉強」と「学校の勉強」をどう捉えているかを説明します。我々は、両者を区別する際、無意識に違った思考方法を用いています。


受験=演繹思考

「受験に失敗しない」系のメソッドでは、必ずといっていいほど、
「まずは志望校(学部)を定める」
ことから話が始まります。

これには、僕も完全に同意します。
「受験」という目的がある以上は、あくまでその目的を達成することに徹するべきです。
そのためには、まずゴール地点を定め、次に自分の位置を見定め(模試などで)、その2点をまっすぐ結び、あとはその線を突き進むのみ。
目的があるため、無闇に横に逸れたり、やたらと自分を広げていくことは「無駄」になります。

このように、ゴールから逆算する思考方法を演繹的思考法といいます。
演繹法について、カラスの話で敷衍します。

A  すべてのカラスは黒い。(大前提)
B  太郎はカラスだ。(小前提)
C  太郎は黒いだろう。(結論)

まず理論(大前提)があり、それに個別の事象(小前提)を照合することで、結論を得る考え方です。
受験でいえば、

A  X大学に受かるためには偏差値が60必要だ。(大前提)
B  自分は今偏差値50だ。(小前提)
C  X大学に受かるためには偏差値を10上げなければならない。(結論)

という具合に考えます。

さらに、たとえば
「あと1年で英語の長文を読めるようになる必要がある」
「長文を読むためには英単語の知識が足りない」
「あと100日で英単語を300個覚える必要がある」
というように、細かく、具体的にしていくことで、受験は誰にでもクリアできる作業ゲームになります。

これが受験勉強のすべてです。
受験に成功するために必要なものは、何よりも演繹思考、そして計画力及び実行力です。


学校の勉強=帰納思考

次に、学校の勉強について。
多くの人は、学校の勉強を帰納的に捉えています。

演繹法に対する帰納法の考え方は、個別の事象から、ひとつの理論を導き出す手法。
カラスの話にたとえるなら、

A  カラスの太郎は黒い。(事象)
B  カラスの次郎は黒い。(事象)
C  カラスはすべて黒いだろう。(結論)

要は、ひとつひとつの事柄を積み上げていき、最終的にできた理論を結論とする考え方です。

そもそも、学校の授業について能動的に取り組む人、また授業をそういうものだと考えている人はとても少ない。

その日ある授業をなんとなく受ける。
出された課題をとりあえずこなす。
テストのために仕方なく復習する。

こうしたことを繰り返し、積み上げるだけで終わってしまうのが普通です。
ひとつひとつの授業が、最終的にどこに向かっているのかを意識しないため、積み上がったものには芯がなく、価値を見出すこともできずに崩れます。

こう考えると、もしかすると帰納的というより拡散的といった方が近いかもしれませんね。


このように、普通の人々の意識の中では、
「はっきりとゴールが決まっている受験」と「日々積み上げていくだけの学校の授業」という区別が自然と出来上がります。

また、この区別は序列が伴います。

本筋は、人生を左右する「受験」というゴールに向かう道。
無目的的に積み重なっていく「授業」は、その道程で役に立つ部分もある、というくらいの位置づけ。


学校は逆

学校の先生はよく「受験勉強よりもまずは学校の勉強を大事にしなさい」という。
「授業では受験よりも大切なことをやっているのだ」と。

これは、ただ自分たちの生業を正当化するために言っているのではなく、ほとんどの教員は大真面目にそう思っているのです。

それは、学校が「受験勉強」と「学校の勉強」を、世間とは逆の方向から考えているからです。

学校では、授業を演繹的に考えます。
そして受験を帰納的に考えます。
どういうことか。

学校では必ずシラバスというものを作成します。
その年にどんな教材を扱い、どんな力を生徒につけようとしているのかの計画書です。

(まじめな)先生は、
「○○という力をつけさせたい
→××という内容にしよう
→△△という教材を扱います」
というふうに年間の授業計画を組み立てています。

もちろん、扱わなければならない範囲があるため、現実には自由度は低いです。
しかし、それだってもとをただせば演繹的に決められたもの。

そもそも教育とは、人間が人間を、ある理念のもと、ある理想像に向かわせようという試み。

つまり、教育は元来演繹的な営みなのです。

その中で、受験はどう位置づけられるか。
それは、大いなる教育のゴールへと向かう道中にある、「これまでどれだけ正しく積み上げられたか」のチェックポイント。

このように、学校は授業を演繹的に、そして受験を帰納的に考えます。

だから、誇りをもって「学校の授業をしっかりやっていれば受験もなんとかなる」と言うのです。

しかし、生徒は先生の理想通りには成長しない。
少しの無駄もなく授業で成果を得られる生徒など存在しないし、そもそも「完成図」を知らずに積み上げられた積み木が、「完成図」通りになるわけがない。


チグハグな心

では、学校の勉強はどこへ向かっているのか。
根拠となる学習指導要領が掲げるのは、「生きる力」です。

「生きる力」を育むために、教員は日々授業をしている。

果たして本当にそうでしょうか。

細かな文法事項を記憶させること、重箱の隅をつつくような添削指導、ノートの取り方など枝葉末節にこだわる指導方法。

なぜ、こんなにも「生きる力」からズレた指導がいまだに残っているのか。

ひとつには、やはり受験の存在があります。

受験に出るから、単語や文法をやらざるを得ない。
受験で減点されるから、細かな誤字脱字に注意を向けざるを得ない。

こういう先生が多いのではないでしょうか。

結局、教員も受験を意識してしまう。
しかし、本来のミッションはより深く、遠大で、抽象的な「生きる力」。
結果として、チグハグな授業をしてしまう。
挙げ句、それでもなお受験と授業を切り離したいがために、「いつもの授業」と「受験対策」を分ける。
わかりやすい「受験対策」として、問題集や過去問研究が選ばれる。

高校教員には、こうした心理が働いているような気がします。


「受験はゴールではない」は難しい

見てきたように、受験が教育の終着点ではないことは自明の論理です。
もっといえば、良識ある大人であれば、受験=入学であって、むしろ「そこから何をするのか」が大切になるのは当然理解できます。

しかし、これを生徒に理解してもらうことは非常に難しい。
なぜなら、生徒にとって学校で習う勉強とは帰納的で、あくまで向かう先は受験という壁であり、受験という壁の向こう側なんて見ないからです。

ある壁が通過点に過ぎなかったことは、その壁を越えた人にしかわからない。
親切な人ほど、その先のことを伝えようとしてくれるけれど、当事者にとっては、目先の壁がすべて。
その先のことを考えるのは、地味にめちゃくちゃ難しいのです。

こうして生じる受験と学校の乖離について、問題点はいくつもあります。

まず、教員の中でも、思考停止している人は結構います。
ほとんど大学受験しない学校なのに、生徒に古典文法を覚えさせることに腐心している先生。

「用言の活用くらいは覚えておかないと」

こういうことを本気で言います。
自分が受けてきた教育を無批判に繰り返すタイプです。
教育としての目的と、受験への意識と、自分のやりたいことが支離滅裂になっています。
教員は、もっと授業と受験の関係について真剣に考えるべきではないか。

それから、言うまでもなく入試の在り方。
付け焼き刃の知識や技術で通過できるような関門で在り続けていいのか。
思考の深度や論理力と正面から向き合うべきではないのか。


まとめ

教育は理想的な人間像を設定し、子どもたちを導こうとします。
それに対し、多くの子どもたちは受け取った教育を積み重ねながら、最終的に出来上がった人間としての大人になっていく。
こうした、演繹/帰納意識の逆行が学校現場では起きていて、結果として、受験という壁の存在を特異な位置に押しやることになってしまっています。

ひとつの解決策として、教員が生徒に「完成図」を見せ続けるというものがあります。
しかし、それが正しいやり方かどうかは、常に批判していかなければなりません。

ちなみに、僕は「学校の勉強=受験勉強」のカタチを常に模索しています。
それについては、のちのち紹介したいと思っています。

今、教育は変わりつつあります。
教え込む教育から、引き出す教育へ。
生徒一人ひとりの個性に合わせ、その良さを伸ばしていく、帰納的な営みへ。

もちろん、まだまだ変化の途上にあるし、それもそれでいいのか、よくわかりません。
ただ、大学入試の形も変わってきた現代、このうねりの中で、教育が抱えてきたさまざまな齟齬や葛藤が、次々に水面に浮上してくるでしょう。
それらに、ひとつでも多く光を当て、そのうちひとつでも多く解消できたなら、それは進歩と呼んでもいいのかもしれません。

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