正しい福祉と昏い思想
福祉を考える上で、避けては通れない障害者施設「津久井やまゆり園」での事件。
事件から7年が過ぎた今でも犯人が残した傷跡は癒えないままです🥲
今回はこの記事を見ていきます。
【記事の概要】
・19人が殺害された事件から7年。神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で26日に追悼式が開かれた。
・神奈川県の黒岩祐治知事は、「今も強い怒りと深い悲しみがこみ上げる。私はその気持ちを抑えることができない」と式辞を読み上げた。
・津久井やまゆり園を運営する社会福祉法人・かながわ共同会の山下康理事長は、「若い世代にこの事件のことを、障害福祉のあり方というものを、きちんと伝えていかなければいけない」と述べた。
・黒岩知事は、「我々は正しい障害福祉を作るために全力をあげている」と強調。「当事者目線の障害福祉を力強く推進し、『ともに生きる社会が実現できたよ』という報告を19人にできる日まで全力で頑張りたい」と意欲をみせた。
・兵庫県明石市から計24人分の寄せ書きを持って訪れた小学校教諭は(中略)「命の価値に軽重なんてないということを改めて認識する。それを子ども達に伝えていけたら」と語っていた。
【正しい福祉とは?】
2016年津久井やまゆり園で起きた、元職員による重度障害のある入居者の殺害事件は当時多大な影響を与えました。
連日ニュースで取り上げられ、当時重度心身障害者のグループホームで夜勤を兼任していた僕は、利用者さんとそのニュースを一緒に見てショックを受けました。
そうした背景もあり、改めて追悼の意を示すと共に、記事の中で疑問に感じたのが「正しい福祉」の部分でした。
「正しい福祉とは『誰に』『何の権限があって』『どのように決められるのか』」と。
正しい福祉とは「画一された価値観による福祉」であり、その範囲の中にいなければ『正しい』と認められない福祉です。
「その範囲からこぼれ落ちたものは福祉とは呼ばない」という性質を持つことになりますが、福祉の歴史を振り返れば
『社会システムからこぼれ落とされた方々への救済』
から始まっているのですから、福祉が『正しさ』によって「こぼれ落とす人」を生み出すのは矛盾しているのです。
福祉とは、
「0か1か」と白黒ハッキリつけられるようなデジタルなもの
ではなく、
「0も1もそれ以外も」という多様性を持つアナログなもの
なのです。
ですから『正しさ』という思考は
「誰かが『正しい』と決めた価値観に従いなさい」
あるいは
「私が決めた価値観こそ『正しい』(だから私に従いなさい)」
という思想となり、犯人の発言を見ていると『正しさ』による狭窄がこの事件の温床になったとも考えられるのです😔
【自分の小ささと向き合う】
この事件を難しくしているのは、人の心の奥底にある『劣等感』が刺激されるところでしょう。
インターネットの普及により情報が共有化され「誰もが同じ」になれるようになった結果『自分と他人が分けられない時代』となり、「自分」の価値を感じる機会が少なくなりました。
その反動として承認欲求が高まり、「インスタ映え」や「インフルエンサー」などに人々の関心が集まっていったのも記憶に新しいところです😳
また戦後の「優劣がつけられる教育」によって大多数の人々が劣等感を植え付けられた結果、意識的・無意識的に「誰かよりも優れている証明」を求められるようにもなりました🥲
それでも表面的には「〇〇が正しい」という姿を見せなくてはなりませんから、そうした劣等感は秘匿性の高い所(インターネットやSNSなど)で育まれるようになった訳ですね。
外面は良いけれど内面は昏い。
そしてその事実を認めつつも意識したくはない。
こうした心理的背景から、社会的弱者とみなされた障害者への風当たりも同じように
「環境は整えられても人々の思想には昏いものが根付いている」
状態が続いているように見えます。
名古屋城の一件はその環境を整えることですら「わがまま」と言い始める事態で、昏い思想がいよいよ表面化したものと見ることもできます。
本来であればそうした自分の小ささ、昏い思想と向き合って自分を成長させていければ良いのですが、ここには痛みも苦しみも伴います。
これだけ心地よい刺激にあふれた現代で、そうした「痛み」や「苦しみ」を自ら選んで自分を成長させるというのは流行らないでしょう。
つまり、今の社会を続ける以上は
「昏い思想を育みつつも表面的には『良い人』を演じ続けなければならない現代人の歪み」
が治されることはなく、このような事件は今後も大なり小なり起きてしまうのではないかと僕は見ています。
火山が噴火するのと同じように。
【まとめ】
今回は津久井やまゆり園の記事を見ていきました。
この事件をニュースで一緒に見ることとなった利用者さんは「なんでこんなコトするの?! わけがわからない」と憤っていました🥲
当時障害者福祉職員だった僕は「(犯人が)自分の小ささと向き合えなかったんだろう」と答えましたが、そう言った僕自身ですら納得のいく答えだとは思えませんでした。
あの頃から悩み続け、学び続け、考え続けた現時点での答えがここまでお話ししてきたものとなります。
罪だけを見れば「裁かれて終わり」なのかもしれませんが、その思想は人々の昏い部分に溜め込まれていきます。
溜め込まれた昏い思想が噴き出さないように祈るしかないのか、あるいは昏い思想と、痛みや苦しみを伴いつつも向き合っていけるようにしていくのか。
なかなかシンドイなぁ、と思います。
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