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言葉を使って一体何を表そうとしているのか?

読んでいて伝わりやすい本や作品は僕も好きなのですが、表現が難解な本や作品もまた好みです。

ここで言う「難解」とは内容の深遠さとはまた違って、表現上の体裁のことを指しています。「文学的」という言葉よりも、「芸術的」(「感覚的」と言ったほうが良いのかも…)という言葉のほうがしっくりくるような表現の仕方をしている作品もまた好きだということなのです。

これは、イメージでイメージを喚起させるような作品というか、イメージによって何らかの感情を生起させることができる作品というか、とにかく書かれている内容の問題ではないのです。勉強になったな、とか、気付きを得たな、とか、そういうところの話ではないのです。

いつか書いた詩に、「深夜の有名スーパーマーケットの駐車場で新鮮な鮭の切り身をボールに見立てて一人でキックベースをする人」を出しました。

以前なら、これを読んでもらった方に僕は「この人はキックベースを終えたらどこに行くのだろうか?帰る家はあるのだろうか?家族はいるのだろうか?ワンルームマンションなのだろうか?普段は何をして暮らしているのだろうか?そもそも何故一人で深夜にキックベースをしているのだろうか?更には何故新鮮な鮭の切り身をボールにしているのだろうか?その鮭の切り身は買ったものだろうか?盗んだものなのか?腹は減ってないのか?というか、これは一体何の隠喩なのだろうか?」などということを考えてもらえたらいいなと期待していたはずなのです。

まあそもそも僕が書くものなど、そこまでの力はないからあれなのですが、たとえあったとしても、今ではそのような期待は殆ど持たなくなりました。

今も昔も、僕はそもそもイメージを言葉にしようとして書いているのだから、それ以上のもの(それ以外のもの)が伝わるはずなどないのです。そしてそれで良いのだと思います。

意味という足枷に囚われていて、自分が書いたものに対して何とか意味をつけよう、意味を見つけようとしていたのですが、そもそもそんなものなどなかったのだから、「僕が書くものには意味がない、馬鹿だ、間抜けだ、格好が悪い」などとコンプレックスを感じるなどお門違いも甚だしい話でした。

そんな訳で、今では殆ど心を痛めることなく書くことができています。有難うございます。




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