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意味の洪水、意味の枯渇

どれほど複雑で難解な歌詞や詩にも必ず何らかの意味があると思い、無理やり意味をこじつけこじつけして何とか読解しようとしていたときがありました。比較的若いときがそうです。(深遠な?)意味の込められていない歌詞や詩などそれこそ意味がないとまで思っていたこともありました。

そんな訳なので、自分で何かを書く際にも、文章には何らかの意味を込めていないと意味がないと思ったりしていました。

なのですが、最近、文章に逐一意味が込められていなくても、イメージがイメージのまま伝われば大成功だと思うようになりました。ハッと気付いたという感じです。

自分のことを考えてみても、僕の書く(書いてきた)ものは意味が分かりにくいとよく言われてきました。自分でも同様に思っているところがあります。そこに罪悪感というか、変な後ろめたさを感じていました。

しかし今は「僕はイメージで(を)書いてるんや」と言えるようになりました。弁証法でいうジンテーゼみたいなところにたどり着いたような気がしています。突然ですけど。

僕が書いているものは大抵がカオスですが、当該そのカオスを表すのに相応しい言葉を選ぶ際には注意を払っていることも確かです。しかし基本は頭の中にあるイメージを絵で描写していているような文章を書こうとしているといった感じです(し、恐らくかつてもそうだったのだと思います)。

伝えようとする思いと、自分が勝手におもろなりたいという思いが、やはり正→反→合となって今に至るといった感じです。

何より今は自他の文章をずいぶん楽しめるようになりました。それが一番大きい変化です。よかったね。




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