私にとって読書とは
私は人と比べると、かなり本を読むほうだと思う。
その中で小説の割合は一割に満たない。
娯楽で小説を読むこともあるけれど、主に実用書やビジネス書。
だけど本が好きか、と言われたら別に好きじゃない。
どういうことだと思うかもしれない。
私の本を読む理由は、〝楽しいから〟とか〝幸せな気持ちになるから〟とか、そんな明るい気持ちからじゃない。
もちろん、そんな気持ちになるときもあるけれど。
結論から言うと、不安だから。
私にとって本は精神安定剤であり、一歩先の足元を照らすカンテラでもある。
精神安定剤としての役割
私は極端に、立ち止まっていることが怖い。
だから読書はいい。成長実感がある。
自分の不明確な理想に近付いている実感が欲しくて、本を読んでいる。
そうなってくると、活字中毒なのかもしれない。
知らない知識を入れる。知っている事を改めて考える。ノウハウを知り、それを活かす方法を考える。
私は、〝生きる〟というのは考える事だと思っている。
私にとって生きるというのは、間接的に読書なのかもしれない。
読書についての考え方は、よければこちらを。
カンテラとしての役割
人生ってとにかくハードモード。
自由過ぎる世界で何をしたらいいのか、どこに行けばいいのかわからない。
本当はどこにでも行けるはずなのに、子どものころから刷り込まれた価値観で、どこへも行けないと思ってしまっている。
読書は自分のリミッターを外してくれる。
こんな風になれるんだ。
こんな風にしたらいいんだ。
これなら自分にもできるかもしれない。
読書は、普通に生活しているだけでは奇跡的な確率でしか発生しない、根本的な原動力を得る機会が圧倒的に多い。
憧れとか、尊敬とか、自分もこうなりたいとか、そういうもの。
自分の内側の暗闇の一歩先くらいは。
こっちに行こうと思うくらいには、照らしてくれる気がしている。
ここまでは「私にとって読書とは?」と自分に問いかけた結果。
だけどしっくりこなかったから私は自分にもう一つ問いかけた。
「どうして読書をするのか?」
この結論は、〝達成感の中で死にたいから〟。
その可能性を上げる為だけに読書をしている。
笑って死ねるかもしれない。
いい人生だったなと思えるかもしれない。
そんな判断基準が曖昧なものに、バカみたいに膨大な時間を投下している。
今死んだら、まだ何もできていないと後悔する。
じゃあ一体、いつならその達成感を味わう事が出来るのか。
全くわからない。
わからないから、必死になってその可能性を上げようとする。
だから私は、よく言う〝幸せは自分次第〟という言葉の意味が、痛いほどよく分かる。
目指している場所が死だから、判断基準があまりに不明確だから、理想の基準を下げられない。下げる事が怖くて堪らない。
このままでいいとは、とても思えない。
つまり私は、こと切れる瞬間、ほんの一瞬、〝いい人生だった〟と思う為だけに読書をしている。
なんて救いようがないんでしょう。
脅迫的で衝動的。
だけど私はこれも才能の一種だと思っている。
おかげで私は成長する機会があって、自分を知ることが出来ている。
普段はここで自分の思うままに考察やらしている私だけど、この記事は、人生に悩む人に届いたらいいなと思いながら書いてる。
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