見出し画像

自然を身の内に宿す

息子が生まれるころ。
臨月で近所を散歩しながら、これから生まれ出でるこの子にひとつだけ望むとすればなんだろうと突然問いが湧いてきた。

ゆっくり、のしのし歩きながら考える。
ひとつだけ。ひとつだけだとしたら。

健康であってほしい。
世界を楽しんでほしい。
多くの他者と関わってほしい。
いろいろあるけど、まだこれじゃない。
・・・
しばらく歩いて、たくさんのフィルターを通して、最後に残ったひとつは。

自然を自らの内に宿しながら生きてほしい。

自分が自然の一部だということ、目の前のすべてと自分が違うものではないんだという気持ちとともに生きていくこと。

たったひとつを望むならたぶんこれだろうな。
彼がこの世に出てきたならば、できるだけ箱に入れず、彼自身の肌身で世界と付き合うことができるようにしよう、と。

その後、息子は無事に私という道を通ってこの世界に着地して、
親たちが生活しているカンボジアの大地の村の暮らしをお借りして、
離乳食期に鳥の骨をかじったり、
砂の上で1日中バタフライをしたり、
お母さんが魚を捌くのを目の前でみたりしながら育つことになった。

これは魚じゃなくて、焚き付けにするよく燃える木を割っているお母さん


それから数年が経ち、つい先日、遊びに来てくれた友人が撮った素敵な旅の思い出写真を楽しく見ていたときに、長く忘れていたあの時の願いを思い出した。

「この子、とっていい?」
友と並んでヘチマ棚のあいだから聞いてくる息子の、ヘチマに触れる手。
「もうこっちのやつを収穫したから、それは置いておいてあげて」
と左奥から答える私のヘチマを鷲掴みにするそれよりずっと摩擦がない。

ヘチマ棚にて。

このとき、この場では気が付かなかった息子の手。
写真の中にそれを見つけて、ああ、もう大丈夫だなと思った。

ヘチマに触れる摩擦のない柔らかな手を、彼はもう備えている。
きっとこの手は、その他の多くにも、摩擦ゼロで向かっていく。

鷲掴みの手には、相手を捉える圧がある。
摩擦のない手には、お互いに染み込み合う対話がある。

この手は、きっと村の人たちから学んだものだ。
芽を出した豆の様子を見るお母さんの手。
土に鍬を入れるお父さんの手。
それぞれの手の先には、自然という相手がいる。

「とっていい?」という私への一言は、同時にヘチマにも向けられている。
この手で彼は、猫を撫で、蛇を愛で、忍び寄ってひよこを捕まえる。

母ちゃんがこの世界で伝えたかったことは、村という大きな土俵をお借りして、もうほとんど別の誰かから届けられていたようです。
大事なことを伝えるのは親だけでなくていい。
その場に一緒に行って、ともにいる。
私が彼にできることはそれぐらいだと思う。

あなたがその手のひらで感じることを、大切に。
困ったときは、その両手のあいだに宿るものをまず信じてみて。

この日の昼ににいただいた、湯掻いただけのヘチマの甘さは忘れない。

この瞬間を一緒につくってくれた友人ファミリーと、
この一瞬を捉えてくれた友人に感謝。
こういう時間を、これからも君と、大切な人たちと重ねたい。

2023.1.22
20min

この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

サポートいただいたら、私たち家族とその仲間たちのカンボジアライフがちょっとほっこりします☆