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行政職員はなぜ"カオナシ化"してしまうのか?

※今年(2023年4月)に「対立の炎にとどまる」の出版記念セミナーに登壇させていただいた際にお話した内容を、note向けに抜粋&リバイスしたものです。


行政職員を"カオナシ化"させていく!?パブリックという魔境

私もなんのかんの干支一回り以上行政職員をやらせてもらって、パブリックという環境について様々な立ち位置から実務に携わってきました。

そもそも公務員になるということは、「就職活動」という人生の重大な選択において、多かれ少なれは意欲と夢、パブリックマインドの種を持っていたはずです。ところが時がたつにつれて、どんどん職員が”カオナシ化(無個性傾向・感情表現や意思表示の減退)”していってしまう様を目の当たりにしてきました。

経年とカオナシ化のイメージ

ただ、ある意味これはちょっと不思議な現象なのです。

日本には1,800弱の地方公共団体があり、それぞれ"社長(知事や市長などのトップ)"が異なるのですが、それにも関わらず「この自治体の職員はみんなイキイキしている!」みたいな話はどういうわけだかありません。

ということは、自治体のあまりイケてない環境というのは必ずしも内部要因だけではなく、パブリックという外部環境がもたらすインパクトも相当に大きいのではないか、というのが私なりの仮説です。

そこで、世界中の紛争や葛藤解決でも活躍するアーノルド・ミンデル博士のプロセスワーク心理学の視点から、パブリックのメンタルモデルを見立ててみます。

「ランク」と「ディープデモクラシー」の概念が一つのカギ

前提の共通言語として、少しだけプロセスワーク用語をご紹介します。

まず一つ目は「ランク」です。これは要はパワー、権力を生じさせる人間関係の要素のようなものを指します。役職のような社会的地位、腹をくくった人から出る有無を言わさぬような心理的地位、暗黙のルールなどから現れる文脈などがランクを生じさせます。

このランクは関係性に必ず現れるものであり、自覚的に使うことで非常にパワフルなものになります。しかし、無自覚にこれが乱用されたときには様々な問題が起こり得ます。

例えば、実力でのし上がった若いマネージャーが、部下に示しをつけるためにガンガン仕事をこなすとします。ところが部下たちはそのマネージャーの実力をすでに認めており、むしろ強引に干渉し物事を進めるマネージャーにうんざりし、ひそかにサボタージュをはじめるかもしれません。

要するに高いランクが乱用されると、ランクの弱い方が周縁化され、葛藤や停滞といった現象が起こりやすくなるのです。

二つ目は「ディープデモクラシー(深層民主主義)」です。これはつまり「表立って表現されていない声」の存在を指します。

上記の例で言えば、部下たちは「自分たちの存在を無視しないでほしい」という声を持っているかもしれませんし、若いマネージャーの方は「自分が実力を誇示しないと部下に認めてもらえないかもしれない」という恐怖心があるのかもしれません。

これらの視点に立つときのポイントは、善悪の判断を保留することです。「相手が悪い」に思考がハマってしまうと、相手のディープデモクラシーに入ることができなくなり、必要な状況の見立てをすることが困難になります。

行政・議会・市民の不思議な三つ巴関係?

さてプロセスワークの理論について(システムコーチング®を通じて)学んでいって気づいたのは、行政・議会・市民というパブリック環境のプレイヤーが、もしかすると各々が相手を高ランク捉えて自分自身を周縁化しているのではないか、ということです。

まず行政ですが、特に基礎自治体では、基本的にだいたいの職員は市民からのカスタマーハラスメントに苦しんだ個人的経験を持っています。そのため、行政職員は無意識・潜在的に市民を恐れているケースがよく見られます。ちなみに私も新人の時に市民に胸ぐらをつかまれたことがありますw

また行政は議会に対してもまた別の恐れをいだいています。自治体では年4回、延べ4か月ほど議会が開催され、そこで議員は行政に自由に質問をすることができます。それを通じて答弁をする(あるいはするかもしれないというプレッシャーを常に受け続ける)ことが、行政職員には非常に負担が大きいのです。民間企業の方は、年4回株主総会があってそこに片っ端からマネージャーが駆り出され株主たちに突き上げられるとイメージしてみてください。業務停滞しませんか?

一方で議会サイドの視点に立つと、行政のことは難敵に見えてくるかもしれません。実は地方議会は予算編成や実務の執行などでほぼ権限がないため、行政にのらりくらりされてしまったら、有権者への責務を果たせなくなってしまいます。だから議会質問でゴシゴシやるしかないんです。

議会から市民というのも、当たり前ですがかなり気をつかう相手でしょう。票をいただかないといけないけど、具体的に利益誘導するわけにもいきませんから、非常に塩梅が難しいのです。そして、意外と市民から議員へのハラスメントというのも世の中横行しています。議員さんが市民に怒鳴り散らされるとか、猥褻なモノを送り付けられるとか、そんな話もよく聞きます。

また市民から行政を見たら、まるで組織の壁のように見えるし、手続きの細かな専門的でよくわからないウンチクをかざしてくるし、やさしく丁寧に接してもらわなければ困ります。

市民にとって議会なんて多くの人にとっては実感の湧かない"偉い人"に見えるかもしれません。自分なんて見向きもされてないだろう、というふうに感じている方もいるでしょう。

このように、三つ巴の無自覚なランクの乱用と周縁化による混乱が、ベースとして困難なパブリックを取り巻く環境を創り出していると考えられます。

"カオナシ化"現象の正体

こんな一風変わった環境に行政職員は日々置かれているのですが、追い打ちをかけるように、より守りに入り”カオナシ化”に誘導するような風土が醸成されていきます。

まず、専門性を持つことが困難であるということです。行政組織は専門性が尊重されない傾向にあり、その理由を見立てるとまた長くなるので割愛しますが、そのために自信を持って議会や市民と向き合うことを困難にしています。

また何かとやり玉にあげられるため、自尊感情が低いこともあります。例えば報道的にも、オチはとりあえず「行政が悪い」ってことにしておけば安牌という感はないでしょうか?

これらのことが合わさり漠然とした不安感情が常に蔓延しており、行政職員の"カオナシ化"を様々な文脈から(ほとんど無自覚に)奨励していってしまっている、と私は捉えています。

そしてそんなカオナシが最後に頼るのが、あの行政的な形式主義なわけです。だって、形式にさえ頼っていれば一才の個性を挟まずなんとかしてくれるので!(本当はごく稀にしかなんとかしてくれないのですが)

どんな立場からでも自らの痛みは表現されるべきもの

もうこうしてみると、どこからどう手を付けるべきか途方に暮れてしまうというのが本音です。

ですが、一歩目は、どの立場であってもディープデモクラシーを表現する権利がある、というところにあるのではないでしょうか。それはカオナシの仮面を外して、1人の人間に戻ることでもあります。

今ここにどのような苦しみがあるのか。どのような理不尽に耐え忍んでいるのか。それは違った立場間で「こっちはもっとひどい、そっちは大したことがない」などと比較するものではなく、相手の立場にはそういうものがあるということを、まず認知すること。そして自分についても、何を恐れ痛みを感じているのかを、認知すること

そしてそれを声に出すこと。声に出すことは、常に勇気を伴います。それが本質的な深いものであればあるほど。それ自体がリスクを取ってすることなんです。でも、そこからしか扉は開きません。だって、「誰が何を感じているか」という地図がないのに、ちゃんと前に進むのは難しいでしょう?

「驚くかもしれないが私が言いたいのは、エゴイズムを尊重し、それを明らかにしようということだ。同時に、お互いへの愛をたたえよう。偉大な力を出合わせよう。(中略)
 エゴイズム、偏見、運命論、強欲によって、必ずしも文化が妨げられているわけではない。もしそれを明らかにしてそこに入っていければ、私たちは先へ進むことができるのだ。愛と強欲のタイムスピリットの間の弁証法によって、常に私たちに何か新しい予期しないものがもたされるだろう。」

「対立の炎にとどまる」P295

まずは、自分自身の願いと痛みにフタをするのを止めること。そして、自分も相手も1人の人間であると認めること。

カオナシをやめて、愛と強欲をたたえよう!


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