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教育を考える―教師よ、青年であれ!

2023/1/26(木)教育を考える⑮
 前回までは大村はま先生の教育観から家庭の子育てについて考えてきましたが、今日は「教師たるもの」という視点で考えていきたいと思います。
 テーマは教育ですが、「プロ」の職業人として凛とした教えでもあります。教育者ではない方もご一読頂けたら嬉しいです。

「研究」をしない教師は、「先生」ではないと思います。まあ、今ではいくらか寛大になって、毎日でなくてもいいかもしれないとも思ったりしますが…。とにかく、「研究」ということから離れてしまった人というのは、私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。つまり、前進しようという気持ちがないわけですから。それに、研究ということは苦しいことです。ほんの少し喜びがあって、あとは全部苦しみです。その喜びは、かけがえのない貴重なものですが。研究ということは、「伸びたい」というがたくさんあって、それに燃えないとできないことです。(中略)なぜ、研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは、「身の程知らずに学びたい人」のことだと思うからです。いくつであっても、伸びたくて伸びたくて…、学力もなくて、頭も悪くてという人も、伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。一歩でも前進したくてたまらないのです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている、その塊が子どもなのです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず、子どもと同じ世界にいない教師は、まず「先生」としては失格だと思います。子どもと同じ世界にいたければ、精神修養なんかではとてもだめで、自分が研究しつづけていなければなりません。研究の苦しみと喜びを身をもって知り、味わっている人は、いくつになっても青年であり、子どもの友であると思います。

「教えるということ」:大村はま P27~

 この言葉、背筋が伸びませんか? 
 日々の仕事、生活に慣れた私たちは、つい「こんなものでいいだろう」という尺度をもち、身に着けてしまうところはないでしょうか。
 また、プロとして学び続けることと、すべき仕事をこなしていくことを混同してしまうこともあるのではないでしょうか。子どものことを考えているから「良い先生」という幻想に安心してしまっているのは、教師自身だけではなく保護者も同じではないでしょうか。
 我が子を時には厳しく温かく見守り、観察する教師の姿は、今上記の文章を読んだ私たちのように、励まされながらもどこか叱られているようなこちらの姿勢を見られているような気持ちにさせられる。しかも子どもの苦手や弱い部分も的確に捉え、指導してくれるから覚悟のない保護者には耳が痛いのが本音だろう。そんな教師には保護者も気軽に子どもの愚痴なんて言えないのが、この「研究を重ねる教師」の姿ではないでしょうか。
 対して、「子どもに優しいだけの教師」は保護者の目からたら「可愛がってくれるし…」と短期的な目で見れば嬉しいものでしょう。
 しかし長い我が子の人生として教師の目を見直した時、この「研究」を続ける教師がいかに有難い先生であるかがわかるのではないかと思います。

 このはま先生の言葉と姿勢は、教師には当然必要なものだとは思いますが、同時に「学び続ける親」「努力を続ける親」は子どもの日々のがんばりと同じ土俵につける有難い「同志」となり、「理解者」となれるのではないかと思います。
 
 何かのプロとして頑張る大人の皆さん!
 はま先生の言葉に気を引き締めて、今よりちょっと若い自分になりませんか?考えることを諦めて「年寄り」になってしまう前に…

今日はここまで!
最後まで読んでくれてありがとうございます。
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