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【第7回】司馬遼太郎 著 『世に棲む日日』 (前編)

今回は、山口は長州に生まれた革命家・高杉晋作と、その思想の師匠である吉田松陰を主人公にした長編小説、司馬遼太郎氏による『世に棲む日日』を紹介します。

徳川体制の終結を先導した幕末の長州藩において、一際存在感を示した二人の藩士、吉田松陰と高杉晋作。思想家となりその過激さから安政の大獄で処刑された松陰と、その門弟で松陰の意思を継ぎ革命を導いた晋作の生涯、そして長州藩が、開国か攘夷かに揺れる日本にさらなる揺さぶりをかけていく革新期の様相を、ダイナミックに描いた作品です。

長州藩で培われてきた徳川に対する意識

戦国時代には現在の山口、広島、岡山、鳥取、島根を版図にしていた長州藩毛利家。
しかし関ヶ原の敗北により、広島城と領土の9割近くを没収されました。
石高は120万石から36万石に減らされ、城は萩に置き周防・長門2州に閉じ込められることに。
以来、萩の武家屋敷では代々西枕にして寝る家が多く、それは東の将軍家に足を向けるためだということ…本当かどうか、根深い執念が感じられる習慣が、この作品では描かれています。

「長州は本来、徳川に屈従しているべき藩ではない。徳川に代わって天下を総括し、大いに日本の正義を伸べるべき藩である」。
藩内にこうした歴史主義がくすぶっていたのかもしれない、ということが、幕末維新期の長州藩のアイデンティティを紐解く鍵になりそうです。

こんな長州藩の性格を踏まえながら、司馬遼太郎氏による『世に棲む日日』の二人の主人公、吉田松陰と高杉晋作の生涯をなぞりつつ、幕末維新期の日本を読み解いていきましょう。

幕末の攘夷思想を牽引した思想家・吉田松陰

吉田松陰は天保1年(1830年) 、長州藩の下級藩士杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれました。幼名寅次郎。以下、のちの号である松陰の名で統一します。

幼年から師範をつとめる神童


5歳の時、叔父・吉田大助の死去に伴い、山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐことに。
そして8歳にして、松陰は家学教授見習として藩校明倫館に出勤、12歳の時には13代藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義し、大評判を得ました。

海の向こう清国では アヘン戦争(~1842)が起こっていたこの頃。
松陰は18歳にして、家学後見がお役御免となり、独立の師範となります。
長州藩では周布政之助が都講に抜擢され、藩校明倫館の拡充政策を押し進めます。
同時期の彦根藩では、井伊直弼が15代藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗り出していたのでした。

遊歴と友との出会い

嘉永2年(1850年)、 九州に遊学していた松陰は、生涯の親友となる宮部鼎蔵と出会います。

翌年には藩命により江戸へ遊学しますが、松陰は宮部らと東北旅行へ出奔。通行手形の手続き不備のため、最初の脱藩の罪を得ました。
この東北旅行で松陰は、水戸藩を訪問し会沢正志斎らと交流します。

江戸桜田藩邸に戻った松陰は萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪されますが、それは実は杉百合之助の「育み」とされる寛大な処置でした。

ペリー艦隊への接近

嘉永6年(1853年) 、藩主毛利敬親の温情により10年間の諸国遊学を許され江戸へ向かった松陰は、佐久間象山の私塾に通い、洋式兵学や砲術などを学びながら、藩主敬親に上書し長州藩の国防論を提言したり、ロシア船での海外密航を志し長崎へ出立したりと猛烈な勢いで行動します。

この年の大事件はなんといってもペリー艦隊の浦賀来航。松陰はなんと艦隊に接近し、米国への渡航を企てます。

結果は勿論失敗。萩城下の野山獄に入れられます。ともに艦隊に乗り込んだ金子重之助は、松陰より先に獄内で病死してしまいました。

高まる攘夷の気運

彼が実家の杉家で閉門蟄居している間に世界情勢は動きます。
安政3年(1856年)には英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争・アロー号事件が起こり、1860年まで続きます。

外国圧力への警戒が高まる中、萩郊外の松本村で蟄居する松陰のもとには、近郷の若者が参集、さながら私塾となっていきます。
ここで松陰は門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し、叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継しました。

安政4年(1857年)、 高杉晋作が松下村塾に入門します。
その後、松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられるなどし、松下村塾は長州藩庁公認となったのでした。

安政の大獄

この頃中央では、老中首座・堀田正睦が、京で岩倉具視ら公家の猛反対に合い(廷臣八十八卿列参)、条約勅許取得に失敗する中、井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題での対立派閥となった一橋派の粛清が始まります。(安政の大獄)。

破約攘夷を主張する松陰は藩に度々上書し、周布政之助ら藩政府首脳と対立します。
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印し、英仏蘭露とも同様の条約を締結すると(安政五カ国条約)、攘夷の気運はますます高まりました。

そして朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下したことで、尊皇攘夷運動はネクストステージに進んでいきます。

盟友の梅田雲浜が獄死すると、松陰は反幕府運動を策動し朝廷に『愚論』『続愚論』を献上。老中・間部詮勝の要撃計画を策動するや、彼は野山獄に再投獄され、松下村塾も廃止されることになりました。

この頃の松陰は、まるで狂に取り憑かれたように討幕挙兵を画策し続けます。
やがて安政6年(1859年)、 老中襲撃計画を自白し、江戸の小塚原刑場にて斬首されました。
享年30。彼の骸は江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが小塚原に埋葬、その後 高杉晋作・伊藤博文らによって、世田谷若林に改葬されました。

松陰と二十一回猛士

松陰という号は、先の勤皇思想家・高山彦九郎(1747〜1793)の諡からとったとされています。高山彦九郎は全国をくまなく遊歴し、様々な人物と交流する中で勤皇思想を説いた人物ですが、吉田松陰(寅次郎)は彼を尊敬し、その諡を自らの号にしたそうです。

また彼のもう一つの号「二十一回猛士」は、自らの名を分解することで二十一の数字を得た上で、その回数分、猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行するんだという意思を表明したもの。生前彼は、①東北旅行のための脱藩、②藩主への意見具申、そして③ペリー艦隊への渡米の企ての3つの行動が、猛士としての実行であったと振り返ったと言われています。

司馬遼太郎による吉田松陰評

司馬遼太郎氏は吉田松陰について、「幕末に成立する正義の中でもっとも精密に思想的であった」と評しています。
しかしながらその思想、特に政治についての思想に、時間や空間を超えるだけの普遍性はなく、優れた思想的体質を持つつつも普遍性への飛翔を遂げきれずに終わったのは痛ましいことだとも記しています。(文庫版あとがきより)

さらに司馬氏にとって松陰の名は、明治国家を作った長州系の大官たちによって国家思想の装飾に利用されたものだというイメージから、幼少期から毛嫌いしていたと告白した上で、本作を書き終えてなおも、「松陰の思想は松陰という稀有な個人においてのみ電撃性を帯びるものであり、他には通用し難い」と語っています。

それでいて彼はなぜ幕末を描くに当たって、主人公の一人を吉田松陰としたのか。
これは作品後半の主人公、高杉晋作の行動を読み解くために必要な存在であったのかもしれませんし、読者にとっては、高杉のみならず、長州藩を中心に、情勢を懸念し個人のあり方を自問し模索していていたこの時代全ての人たちの「気分」をイメージするために、松陰はとてもシンボリックで存在感の大きな人物であったのだと感じられてやみません。
ぜひ吉田松陰の思想と存在を立体的に現代に蘇らせる、司馬遼太郎氏の作品をお楽しみください。

後編に続きます。






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