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【第4回】藤田覚 著 『幕末の天皇』

今回は小説作品ではなく、幕末時期の天皇について詳細に解説した藤田覚先生による『幕末の天皇』(講談社学術文庫)を紹介します。

「光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治」

近代天皇制を生み出した、18世紀末から80年にわたる朝廷の"闘い"のドラマ…。
幕末政治史の表舞台に躍り出た光格と孝明の取組から、「江戸時代の天皇の枠組み」を解明しています。

戦国時代の群雄割拠を終焉させ天下統一を実現した3人の英雄については、「織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川」と言い表されました。
これをもじって明治維新の王政復古を著者が表現してみたのが、「光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治」。
果たしてこの真意とは?

江戸時代の天皇と幕府

初めに本稿第一章では、江戸時代の天皇について概略が説明されています。
幕藩権力とその正統性、天皇・朝廷の統制、朝幕関係の形式と内実、そして18世紀末の天皇を取り巻く状況など、なかなか身近な話題とはいえないのですが、幕末のゴタゴタを理解する上でぜひ押さえておきたい知識を与えてくれるので、お勉強気分で読んでみましょう。

朝権の強化をはかった光格天皇

第二章から第三章では、主人公のうちの一人、光格天皇を取り巻く様相について解説されています。
神事や儀礼の再興・復古を通じて、朝権強化をはかった光格天皇。
時の江戸幕府の老中・松平定信との、御所造営問題や尊号事件における攻防は、まるで小説を読むような気分で読み進めることができます。

そもそも江戸時代の幕府と朝廷の関係を決定づけていたのは、元和元年(1615年)に制定された「禁中並公家諸法度」。江戸幕府が天皇と公家の行動を規制するために定めた法度です。
同じ時期に家康が定めたとする「公武法制王勅18条」の第2条では、「政道奏聞に及ばず候」として、幕府が政治のことを天皇・公家にお伺いを立てる必要はなしとされていました。(半藤一利著『幕末史』。なお公武法制王勅は現在では偽法令と扱われているとか)

そんな慣例が変わってきたのが光格天皇の時代。
本居宣長の解釈により、「天下の政を行う権限を、天皇(朝廷)が将軍(幕府)に委任した」という体制委任論が成立し、天下の人はみな王臣という考えが広まっていきます。
つまり将軍の威勢が衰え始め、天皇の権威が返り咲いてくるのです。

文化4年(1807年)にロシアとの間に軍事的緊張が走った時、幕府が朝廷にその情勢を報告してきた一件も大きなきっかけとなりました。
「蝦夷魯西亜船一件」と呼ばれるこの報告は、外圧に弱腰であった幕府が日本国内の強力な態勢づくりの役割を朝廷に求めたのかもしれませんが、これによって幕府の対外政策に朝廷が介入する根拠を与えてしまったのです。

尊皇攘夷のカリスマとなった孝明天皇

続いて第四章・第五章で展開されるのは江戸時代最後の天皇、孝明天皇について解説されています。
光格天皇の孫にあたる孝明天皇は、この豪胆さからも朝廷が対外政策に介入できる道を開いた人でした。

孝明天皇は欧米諸国の外圧に直面し国家の帰路に立った時、頑固なまでに通商条約に反対し、鎖国攘夷を主張し続けました。
それにより、尊皇攘夷、民族意識な膨大なエネルギーを吸収し、政治的カリスマとなったまさに幕末の天皇です。
もし、幕府が求めた通りに通商条約の締結を勅許していたならば、もしかして日本は別の歴史を辿ったかもしれません。

公武合体か尊皇攘夷か日本中が混乱する中、真偽不分明の勅令が連発され、時の勢力の対立抗争に油が注がれていきます。
この時、孝明天皇の精神史的な背景に何があったのか。彼は何を思いどう行動したか…。

孝明天皇の突然の死については、今もなお病死か、はたまた毒殺されたのかと憶測を呼んでいるところです。

歴史の転換点にあった天皇

本稿で強調されるモチーフは「孝明天皇が幕府の求めるままに通商条約を勅許していたら、その後の我が国の歴史は大きく変わったのではないか」というもの。
この点を検証するために、歴史的経緯や条件が緻密に網羅されており、幕末史を考えるにあたって大変興味深く、また必須にも感じられる本書です。

講談社学術文庫の書籍は体裁も読みやすくなっているので、堅そうなテーマですが是非手に取っていただきたい一冊です。

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