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絵が上手い人。


今でこそ、このようなテキトーでヘタくそなイラストを描いている私だが、実は本気で描くと絵はまぁまぁ上手いほうだ。
学生時代、美術の点数は高かったし、表彰状の類をもらうこともしばしば。そこにアートがあったかはさておき、デッサン力という「技術」はあったと自負する。井の中の蛙、大海を知らず。先生に勧められて美大に行くことを考えていた時期もある。たいして取り柄はなかったが「自分は人より絵が上手い」ということを、わずかな誇りとして自分を支えていた小中学校時代だったと思う。

すみません……。
唐突に何のご自慢かと思われるかもしれないが、実は今日語りたいことはそう人様に胸を張れる話ではないのであります。


最近絵を描こうとすると、『ホンマでっかTV』での心理学の植木先生の言葉を思い出す。確か番組ではそのとき、絵心がない人をいかに上手に絵を描けるよう導くか、という企画だった。
植木先生は、こう言うのだった。
「絵をうまく描く人は、対象の『悪いところ』をよく捉えており、『悪いところ』から描こうとする傾向があります」
……ドキッとした。

例えば、美術の時間に薔薇を写生したとしよう。
出来上がって壁に貼り出された絵を見て、私がクラスメートの絵に対して心の中でよく思っていたのが「もっと影をつければ上手く見えるのに」だとか「もっとここの枯れた部分を描き込むと味が出るのにな」だとか、そういった感想ばかりだったと記憶する(大きなお世話である)。
クラスメートの大多数は、対象の良い面、つまり薔薇の美しさをポジティブな気持ちで捉えて、それをまっすぐ画用紙に落とし込んでいったのだ。
反面、私の絵が平均的なクラスメートの絵と決定的に違う箇所は、対象の「闇」を捉えているのだった。
薔薇が持つ、ふとしたまがまがしさだったり、押し付けがましさ。闇があるくせに、清楚なふりをする様子。可愛らしい花びらの奥に隠されているねっとりとした甘い蜜。
「絵の上手い人というのは、ネガティブに反応しやすい」と植木先生は言う。「葉っぱの破れかただとか、茎の曲がりかただとかそちらのほうに注目するのです」と。
おいおい、これは絵ばかりじゃないかもしれない、と内心、私は焦った。
確かに美術の点数は良かったが、人としてコレってどうなの、と。


これを日常に置き換えて考えてみる。
薄々感じてはいたが、なんだか確信に変わった気がする。
例えば、人の「欠点」やちょっと垣間見せた「隙」を見つけるのが、異様に早い私。ふと見せた優越感、劣等感、意地悪な気持ち、ズルさ……。他人よりスピーディーにそれらに反応していたのは、やはり気のせいではなかったかもしれない。

私は言う。「でもさ。……あの人さ。さっき、あんなこと言っていたよね。あれって問題あると思うんだけど……」それに対して友人は、
「え? そうだっけ! ああ、そういえば言ってたかも。……確かに、それはダメだよねぇ」
……というようなやりとり。問題に先に気がつくことが圧倒的に多いのだ。私が気づいたから、人々のジャッジが動くということが実に昔からよくある。
私は気がついたことを言ったまでなのだが、それは良かったとは思えない。人々に間違いなく悪い影響を与えるからだ。気がつかなかった人は、気がつかないままでいいこともあったかもしれない。

もちろんいい点も見つけるのかもしれないが、欠点や問題点への動体視力は人一倍、いや少なくとも平均以上だと思う。観察力があるから、こういう商売をしているとも言えるけれど……。
このネガティブにまず反応する体質。
みんなも同じように欠点を捉えているかと思っていたけれど、同じ薔薇を写生していてもあれだけ人それぞれ絵が違うのだから、各個人かなり違うと思ったほうがいいらしい。
他人を観る目。私一人だけ闇をたくさん盛った絵を描いていないだろうか。
……心配になる。
だって、私は「いいおばあちゃん」になりたいんだよう!
猜疑心の強い、目つきの悪い、口の悪いばーさんにはなりたくないんだ!

……やむなし。やむなしだ。思い悩んでも仕方がない。
闇もあって光もある。
闇にまず目がいくかもしれないが、光もきちんと観る。光も大事にする。
要はバランスだ。
闇にいち早く気づく体質を今更止めるわけにはいかないのである。
ならば、闇も光も偏見なく受け止めて、感情を持つことなく受け流していくこと、ときには捨て去ることを、これからはことさら自分に課していきたいと思う。もし、欠点を見つけてしまったら「いい味が出た」ぐらいの軽い気持ちで。闇があるのはお互いさま。
とりわけ人には寛容に、である。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️