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ビートルズで見送って【エッセイ】

1640文字
声に出すと約6分



「この曲、わかる?」
和音を探りながら、父は言った。

ピアノを弾くところなんて、それまで見たこともなかった。
私のピアノの練習はおろか、発表会にも来たことのない人だった。
まさかピアノに関心があるとは思いもよらず、小学生の私は戸惑った。

「これが、イントロ。」
たどたどしくも力強い和音が部屋に響く。
ビートルズの「Let it be」という曲だった。

父は、洋楽の好きな人だった。
車ではよく、エルヴィス・プレスリーやシンディー・ローパー、80年代の洋画サントラが流れていたが、その頃の私はまだビートルズを知らなかった。


「日本に衝撃とロックを持ってきた人たちなんだよ」
オンタイムでビートルズの衝撃を受けた両親から、そう聞いた。

そんな彼らのロックが、日本で再度脚光を浴びた頃
「ベストアルバムが欲しい」という父に、アルバムをプレゼントした。

「CDを焼く」なんて、今はもう言わないのだろう。
その焼く作業のおこぼれで、私もビートルズの曲に触れることとなった。

みずみずしいメロディーは、とても耳馴染みが良く、”世代”ではない私でも、なんとなく歌える曲がいくつかできた。


私がお酒を飲める年齢になり、誕生日祝いでカラオケに行った夜。
ビートルズやカーペンターズ、エルヴィス・プレスリーの曲を私が歌うと、父はとても喜んだ。

普段はとても無口だが、アルコールが入ると饒舌になり、辛口で、ジョークはいつもブラックだった。

そんな父から「いいね、もう一曲」とリクエストをもらうと私も嬉しくて、英語が上手いわけでもないのに雰囲気で歌い続けるのだった。

私の音楽のベースは、十年習ったピアノよりも、父と聞いた洋楽の方が色濃いのかもしれない。



「霊柩車が出発する時には、ビートルズの曲を流して欲しい」

いつだったか、突拍子もないことを父は言った。

普通はクラクション鳴らすんでしょ、と流しながらも、なんだかずっと忘れられない言葉だった。


それから 何年経ったのだろう。

最後の最後まで全然死ぬ気のなかった父は、病と戦い抜いてこの世を去った。

同じ年に父が祖父の喪主を務めたばかりなのに、今度はその父の喪主を、私が務めることになってしまった。


ねえ、お父さんはどうしていたの?


人生には、学校で教えてもらえないことが山ほどある。

他人と家族になっていく過程
親になるということ
子どもを育てていく道筋
親の介護、看取り
葬式

これらを前もって調べておく余裕がある人が、どのくらいいるのだろうか。

私の年で親を亡くし喪主となる人はそう多くなく、周りがどうやっていたかなんてちっとも分からない。
居たとて、聞いている余裕もないのだが。

感情を止め、やらなければならないことと向き合う中で
「きっと父ならこう言うだろう」
それが選択肢の基準となった。


葬儀は流行りの「家族葬」という形式で、親族だけでの見送りではあったが、滞りなく終えることができた。


でも、一つだけ後悔が残っている。

私はどうしても
「ビートルズを流してもいいですか」と言い出せなかったのだ。

きっと、「そんなこといいよ」と、父は笑ってくれると思う。

しかし、親の命が風前の灯と分かった時から、後悔の波というのは物凄い勢いで押し寄せてくるのだ。

美味しいものを食べさせてやりたかった。

温泉に連れて行ってやりたかった。

いつか乗りたいと言っていたハーレーのバイクを買ってあげると言ったことも、間に合わなかった。

だから、冗談だったとしても、1つくらい叶えてやりたかったと悔いてしまうのだ。


本当は、父とのラストドライブで聞こうと
告別式の前夜にプレイリストを作っていた。

結局そこでは流せなかった曲たちを、
一人運転しながら歌ったり、泣いたり、辛くて聞けなかったり。

ポール・マッカートニーのお母さんのように、夢枕に立ってくれるような父ではないけれど、思い出の音楽たちは、私の中を今も巡っている。

歯を食いしばって私たちを守り、背中で語ってくれた言葉の数々を忘れないことを誓って、ここに記しておく。

お父さん、本当にお疲れ様でした。
ありがとう。



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