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2月の雪

 若さというものは、「大きな錘を抱えている」という印象がある。
心に抱えるものによって足が奪われるのだ。その錘はあまりに冷たくその鎖は骨に食い込んで逃れることができない。やがてその錘から開放されるとともに、僕らが目指し歩もうとしていた道が閉ざされてしまうのだ。それは2月に降る都会の雪が街全体を覆いつくせず、その姿を変えてしまうことと同じだ。地上に降りた雪が、その体温や形を永遠に留めることはない。

 雪を見るたびに、僕はある少女を思い出さずにはいられない。「若さ」という錘を必死に引きずりながら羽ばたこうとしていた少女を。

 雪というものは不思議だ。突然何かを手放しで届け、そして突然奪っていく。いつも僕はそれを眺めているだけだった。夕方からの雨が燦燦と街に降り注ぎ、やがて雪に変貌しようとしている国境線上に、僕は偶然(奇跡に近い)、昔に知り合った少女と新宿のJAZZバーで互いにグラスを傾けることになる。僕はそのとき34歳で、彼女は19歳から20歳への間を彷徨っていた。

 19歳という年齢は不思議なものだ。新しい世界の風がすぐ後ろに迫っている。多くの未来か彼女の前に無条件に開けていた。僕は彼女の飲むアドニスを眺めていた。雪のおかげで街はいつも答えを急ぐような雰囲気も幾分和らぎ、都会には不自然なくらいゆっくりとした時間が流れた。でもそれは答えを求めていないわけではない。答えを「保留」しているだけなのだ。

 店内は女性シンガーが「昔の私」を憂うように、しっとりとピアノソロとともに静かに時間に楔を打ち続けていた。

彼女の話をしよう。

 彼女の印象といえば、まっすぐな瞳、時代のモヤモヤした空気を切り裂く鋭いナイフのような指先、そして何より「新しい種類の風」がぴったりと彼女の体にまとわりついていたことだ。彼女は髪を束ね、まっすぐに正面を向き、見えない「何か」と戦っているようだった。そして孤独だった。今に思うと15歳という年齢自体がそういうものなのかもしれない。ただ、僕がそのとき29歳で、若さに対して上手く理解できずにいただけなのだ。

 彼女とはたまたま同じテニススクールに通っていた。僕は週末の気晴らしに、彼女は新しい世界への切符を手に入れるために必死にラケットを振り下ろしていた。そんな世代も温度も違う僕らは限られた時間の中で短い会釈をし、軽い会話をした。そしてたった一度だけ対戦することになる。僕は相変わらず同じ間違いで失点を繰り返し、同じ場所をぐるぐると歩き続けた。彼女は短所を最小限に抑え新たな世界への通過点でしかなかった。そう考えると僕らが共有した時間は本当に少なかったのだ。

 彼女のショットはとても綺麗で、放たれるボールは周りの雰囲気を一変させる力があった。しかし、彼女の顔に笑顔はない。いつもクールでショットを終えた後はその余韻に浸る暇もなく次の展開を思考していた。笑顔なくその繰り返しなのだ。まるで、精密に時計を組み立てる作業のように。
 どんなに華麗なショットを繰り出しても、彼女は決して満足しなかった。
「私の打ちたいショットはこんなものじゃない・・・」と言いたげな表情で、試合に勝利してもその場でラケットを叩き付けそうな雰囲気だった。彼女は目指す場所も、その行き方も知っていた。しかし、彼女を抱えた彼女自身の羽は歪み、約束された場所へ彼女を導かなかった。
 若さというものは、時として苛立たせ、時として周囲を落ち着かせなかった。そしてその両方が15歳という感情の箱を埋め尽くし、大事なもの不要なものにかかわらず手のひらから零れ落ちるのをただ見ているしかなかったのだ。

 僕は彼女がその後テニスプレーヤーとしてどんな道を歩んだのかわからない(僕は不慮の事故でテニス自体を辞めてしまったからだ)僕が想像するに、時間の多少はあるにせよ、彼女に必要とされていた場面での緊迫感に、彼女の精神が耐えることが出来なかったのではないか、と。そんな彼女がコート上で幸福な瞬間を僕は見たことがない。いつも孤独が彼女の後ろからそっと息を吹きかけていた。抑えることのない張り詰めた緊張感は周囲を嫌な雰囲気にさせた。僕は「なぜ彼女はこの世界を選んだのだろう・・」と考えたものだ。と同じくして僕は、彼女から生まれる自傷的プレーを愛した。彼女より華麗なプレーヤーは何人もいる。しかし彼女のプレーの奥にある孤独や悲壮感に、僕は強く惹かれた。彼女が欠けた部分を自力で補うことが出来ていたのなら、僕はそれほど彼女にこれほど興味を持つこともなかったのだろう。「完璧な世界」が存在しないように、「歪んだ世界」を受け入れるようにその歪んだ翼を愛おしく思った。僕自身が彼女の欠落した部分を愛したように、歪んだ羽でさえ彼女を選んだのだと。

 彼女が一度だけ、コート内で微笑みをこぼした事がある。それは僕との最初で最後の対戦時に訪れた。奇跡的に僕のサービスエースが決まり、彼女のラケットが空を切ったのだ。僕の幸運と彼女の不運すべての歯車がかみ合い奇跡は生まれた。僕はタイブレイクでそのゲームに勝利し、その後全てのゲームを落とした。奇跡は二度と訪れなかった。でも僕は、一瞬に見せた彼女の微笑みを忘れることができなかった。

 僕がコートを離れ5年という歳月を経て、彼女は少女から女性へと変貌を遂げていた。それはあらゆる宿命を受け入れて、委ねているようだった。テニスについて話を振ると「ときどきサークルでやる位ですね」と昔事のように話してくれた。
 彼女の微笑みは素敵だった。もう大人の微笑み方だった。彼女は持ち合わせていた翼を地上に下ろし、もう羽ばたくことを止めたのだ。それと引き換えに、また違った次元の幸福を手に入れたのだろう。僕はその自然な微笑みに安心したと同時に、少し寂しい気持ちになった。それは彼女が今にも折れてしまいそうな心を抱えて、必死で生きていたあの少女を僕は知っているからだ。しかし、それはもう僕の目の前にはいないのだ。少なくとも、

“僕の知ってる彼女はもう居ない”

僕は残りのマティニを一気に飲み干した。

 僕らは店を出て薄い雪がアスファルトを覆い尽くす道を足を滑らせないように注意を払いゆっくり駅へと歩いた。僕が傘を彼女に向けると
「ありがとうございます。でも傘を差さなくてもいいですか?今は雪に触れて歩きたいんです」
かまわないよ、と僕は言った。雪を纏い夜空を見上げ歩く街も悪くない。
 僕らはできるだけ人が歩いていない道を選んだ。二人の影だけ取り残され、そこに居座った。足跡だけが僕らのいた証を残すように。けれど足跡は生まれては消えていった。

 帰り際、彼女は試合前に髪を結うように、濡れだ髪先を結わいた。その横顔に少しだけ昔の面影をみた。ホームで次の電車を待つ間、彼女が思いついたようにこういった。
「私、先輩のこと好きでした。知らなかったでしょ?」
「全然知らなかった」僕は突然の告白に驚いた。
ホームに電車がやってきて多くの人を吐き出して、そして息するみたいに人々を飲み込んでいった。

 彼女は「さようなら」といった。僕も「さようなら」といった。

 僕はさっきまで飲んでいたバーに戻り、彼女が飲んでいたアドニスを注文した。タバコに火をつけ、雪の降る新宿の街を眺めた。不思議と雪を放つ雲は見えない。まだ降り続ける雪は不安を注がない。アドニスの赤が雪降る街の一筋の灯りに見えた。降り注ぐこの雪は街を覆い尽くすことは出来ないだろうと思った。しかし、この街の理不尽に火照った温度をいくらか冷ますことは出来るだろうと。

 店内ではアニタ・オデイが「孤独な井戸」をしっとりと歌っていた。15歳の少女が生まれるずっと前の曲だった。僕は行き場を失ったタバコの煙を一人眺めていた。外では雪が降っては消えていった。雪は永遠に降り続くのではないかと思わせた。しかし、永遠というものは存在しない。ただ、それは人間が願うものなのだ。光を奪う新宿の空を見上げ、僕は彼女が抱えていた小さく歪んだ翼を見た。触れたら形を留めない小さな翼…。
 僕はそっと目を閉じた。外郭から僕に入ろうとするものすべてを遮断した。そしてゆっくり僕の心の中の永遠を願う。

 雪が見せる幻想の中、放物線を描きコートの隅に決まるスマッシュを放つ15歳の少女を想像した。「違う、違う」と心でつぶやく少女の横顔を。


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