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ツクツクボウシが鳴く前に

ミステリー作品のタイトルの様な見出しだが、子供の頃に夏休みの過ごし方について自戒の念を込めて心に刻んでいた言葉である。
時の流れがゆっくり進んていた(感じた)子供の頃の夏休みではあるが、毎年出される大量の宿題を前に、「夏休み期間中に終わるのか?」と絶望に似た感情を覚えた方は少なくないと思う。漢字の書き取り、読書感想文、一冊40ページの算数ドリルや問題プリント(一日一枚、1ページやれば終わるという意)、理科と社会の自由研究に図画工作の作品制作、果てはボランティア活動まで.…
よくもまぁ、コレだけの量の課題を出すなと子供ながらに呆れていた事を思い出す。特に完成まで時間を要する読書感想文、自由研究の類は、早めに着手しないとカチカチ山(ケツに火が点く)となるので計画的に進めていたが、その時に完成時期の目安として心掛けていたのが、前述の“ツクツクボウシが鳴く前に”であった。

私が住む神奈川県で耳にする蝉の鳴き声は主に5種類ほどである。先ず7月上旬(七夕が終わるころ)にニイニイゼミが鳴き始め、それから1週間くらいするとアブラゼミのジリジリという、聞いているだけで暑さが増す鳴き声がそこかしこで聞こえてくる。またこやつが曲者で、夜になってからも部屋の明かりに寄って来きては網戸にしがみつき、あの鳴き声で鳴くのだから始末が悪い。ただ、七日程度の寿命の中で精一杯生きている彼らを、煩いというだけで暗い中を追い払うのも、その短い命を奪うことになると思い、よくそのままにしておいたものだ。そして翌朝、窓を開けて確認すると軒下で仰向けになって動かないその姿を見たときは、子供ながら何とも切ない気分になった事を今でも思い出す。

8月に入ると早朝からミンミンゼミ、クマゼミもアブラゼミと共に鳴き始め、夕方になると少し離れた山で鳴いている蜩(ヒグラシ)の声が聞こえてきて、晴れた夏の夕暮れの空と共に癒しの時間を与えてくれた。

お盆を過ぎたあたりになると、ツクツクボウシの登場だ。「オーシ、ツクツクオーシ」という独特の鳴き声が聞こえてくると、そろそろ夏休みも終わりの時期。

今の子供達はどうか分からないが、当時のガキんちょはこの頃になると“夏休みの宿題”という現実と向き合わなければならずにわかに焦り始める。比較的容易で簡単な漢字の書き取りやプリント、算数ドリルだけ着手して後はスルーというのが子供たちの大勢を占め、中には全て手つかずという無双の者もいる。そんなこの時期は、皆で集まって出来たものを持ち寄り、共同作業(悪く言うと丸写し)に勤しむのである。実はこの共同作業が、秋の運動会等でのチームワーク醸成に大いに発揮されるのは言うまでも無い。卒業して十数年経ったところで担任の先生と話す機会があり、既に時効を迎えたであろう当時の夏休みの宿題(みんなでシェアーしていた)の事をカミングアウトしたところ、誰のものを誰が書き写したかまで全てお見通しだったと笑いながら話してくれた。続けて、「自分で考えて問題を解くのも勉強だし、みんなで集まって考えるのも、答えを写すのもまた勉強だよ。大人になってからは後者の経験の方が大事だって、お前も分かったでしょ」と、目を細めながら話してくれたことを今でも鮮明に覚えている。

先日、宿題代行の話題がメディアに取り上げられていた。これが良い商売になるらしい。大学生が授業の合間の小銭稼ぎとしてやっているとの事だが、中には仲間内数人で得意分野別に多数の件名を受注することで大きな利益を生んでいる経営者顔負けの学生もいるとのことだ。勉強が苦手な子や夏中遊んでしまって9月の始業までに宿題が終わらない子が依頼するのかと思っていたが、依頼主の多くは中学、高校受験の生徒の親御さんで、その理由は宿題にかける時間が無駄(勿体ない)とのことだ。大きな目標に向かって全てを賭して努力することは大きな経験と自信に繋がる事は理解できるし、それを否定するつもりもない。幸福の尺度は人それぞれだ。そもそも一般人である私の意見や考え、ましてはこの文章でさえも、ある種の大義を持ったこの様な方々にしてみれば、「蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)」以外の何物でもないだろう。ただ、仲間や友達と過ごすある種の“無駄な時間”も人生を豊かにしてくれるものだと私は信じたい。

夏蝉の七日間と我々の一生、どちらが豊かで幸福かは神のみぞ知るだ。

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