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究極のネガティブを一回経ての究極のポジティブ

立場的に追い込まれている時、精神的に挽回するために、なんかこう、とてつもなく大きな夢みたいなことを考えようとする。

けど、なかなか、うまく行かないものだね。。。

その点、パウロというのは、ほんと、すごい人物だと思うよ。

今日の聖書の言葉。

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイの信徒への手紙 3:1 新共同訳

この言葉をパウロが書いたとき、彼はローマの獄中で足を鎖につながれ、自由を奪われた状態だった。

にもかかわらず、パウロはポジティブシンカー(積極思考者)だ。

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのです!

どうひっくりかえったら、こういう思考が出て来るんだろう?

■ イエスが十字架につけられた。。。それは、わかる。

■ イエスの十字架は、人類の罪をゆるすための身代わりの死。。。これも、わかる。

■ 死んで墓におさめられたイエスは、三日目に復活した。。。ひーひー言いながら、わかる。

ところが、その先をパウロは行くのだ。

■ あなたはイエスと共に十字架につけられて死んだ。
■ あなたはイエスと共に復活した! 
■ 
あなたは、いま・すでに、復活のいのちを生きているのだ! 

をいをい、ちょっと、待ってくれ、ってなる。

そりゃ、なるでしょ?

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
コロサイの信徒への手紙 3:3 新共同訳

パウロのポジティブシンカーぶりは、単純なものではない。

それは「オレはもう死んだ」を一回経ての「オレはもう復活した」なのだ。

パウロは人生における、あらゆるネガティブ要素を、「オレはもう死んだ」の中に回収しようとする。

その回収っぷりが、はんぱない。ひとつ残らず回収する。自分自身という「究極のネガティブ要素」すら回収してしまう。そして、ぜーんぶイエスの十字架につけて終わらせてしまうのだ。

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
ローマの信徒への手紙 6:6 新共同訳

自分は1980年にクリスチャンになったけど、このキリスト教の奥義と言うべき宣言「オレはもう死んでいる」を、あー、はい、そうですね、信じます、と、すんなり受け入れられるようになるのに、10年ぐらいかかった。

その上で、「オレはもう復活したのだ」を、えっ、あ。。。はい、信じます、となるのに、もう10年ぐらいかかった。

追い込まれてるなぁ、自分。。。どうするのよ。。。って思う、冷え冷えとした暗い冬の夕暮れ。。。

ふと、思い出したように、考える。

そうだ。。。オレって、もう死んでたんだ。。。

自分と名の付くすべての要素。。。自分の欲望・自分の願望・自分の地位・自分の夢・自分の名誉・自分の立場・自分の好み・自分の計画・自分の主義・自分の主張・自分の信仰・自分の神学・自分の努力・自分の善行・自分の業績・自分のメンツ・自分の権利・自分の正義・自分の利益・自分の所有・自分のスペース・自分自分自分。。。ぜーんぶ、ひっくるめ、キリストの十字架につけられて、死んだんだった。。。

ふーっ、と心が軽くなる。

そして、思うのだ。

忘れてた。オレって、復活してたんだ! 

だから、もう、ぜーんぶ、自分のものなんだ。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか
ローマの信徒への手紙 8:32 新共同訳

こりゃ、人生、始まったな、って。

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