見出し画像

ツリーの飾りの最後の仕上げに取り付けるものは、なに? っていう話です。

クリスマスツリーのてっぺんにつける星。ベツレヘムの星というやつだ。救い主である赤ちゃんイエスが生まれた夜、ひときわ明るく輝いて、みんなにその居場所を告げたという。東方の博士たちはその星に導かれ、宝の箱を携えて、イエスを訪ねてはるばる旅した。そして救い主を見つけたんだ!

今日の聖書の言葉。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
マタイによる福音書 2:10 新共同訳

この故事を想起するためにツリーの最高の場所をいまもベツレヘムの星は占めている。昔はボール紙に金粉がまぶしてあって手で触ると変形して粉が取れちゃうようなやつが多かった。なので小学生ながら思ってたっけ、しょぼいなあ、って。でも最近はプラスチックのしっかりした作りのが多いよね。

クリスマスツリーのてっぺんは星だとばかり思っていたけれど、絵本作家のターシャ・チューダー(1915-2008)のツリーのてっぺんには黒いカラスの人形が載っていた。なんでカラス? 不吉な? 魔女なの? とか思ってしまうけれど、そうじゃあない。こういう伝説にもとづいているのだ。

カラスがベツレヘムの上を飛んでいたところ、空いっぱいに飛ぶ天使たちに出会った。そしてほかの鳥たちにキリストの誕生を知らせるという栄誉をあたえられたという。
ハリー・デイヴィス『ターシャ・チューダーのクリスマス』文芸春秋刊

聖書的に言うとカラスというのは、なかなか不名誉な役回りをあてがわれている。ノアの洪水のとき、水がどれぐらい引いたか確かめるため箱舟から一羽のカラスが解き放たれた。ところが探索に出たカラスはいくら待っても戻らなかった。なぜかと言うとカラスは肉食性なので、大洪水によって出た大量の。。。以下自粛。。。

こうして探索の栄誉は別のトリが得ることになった。ハトは水が引いて芽を出したオリーブの若葉をくわえて戻り、洪水の終わりを告げたのだ。このためハトは平和の象徴とみなされることになり、新約聖書においては三位一体の神のパースンのひとつ「聖霊」のシンボルとすらみなされるようになった。スゲー出世ぶり。。。

残念ながら聖書の本文ではカラスの名誉は回復されていない。なので、聖書外の伝説でもって名誉を回復してあげようと誰かが思いついたのに違いない。洪水の終わりを告げなかったカラスは、救い主である赤ちゃんの誕生を世界中のトリ仲間に告げる栄誉を与えられ、そんな栄誉があることはカラスとトリたち以外だれも知らないのだけれど、ターシャ・チューダーだけは記憶していて、ツリーのてっぺんでカラスに敬意を払ったというわけだ。

それだけじゃあない。やさしいターシャ・チューダーは、不吉の代名詞としてのカラスの地位を不動にしたエドガー・アラン・ポーの詩『大鴉おおがらす』(1845) の向こうを張って絵本『エドガー・アラン・クロウ』(1953) を描くことで、カラスの名誉回復を図っている。

もし、自分の人生がツリーのようなもので、人生を生きるとは、ありのままの自然な木に思い思いの飾りつけをすることで、創造主なる「神」を賛美することであるとするならば、ツリーの最後の仕上げでてっぺんに取り付ける「なにか」は、自分の場合いったいなんなのか? それは結局、自分は何に対して敬意を払い、何を誇りに思って生きて来たのか、ということの成果物になるんだろうと思うけど。。。

東方の博士たちは自分たちの学究の成果である論文を人生のてっぺんで輝かせることはしなかった。そうではなく、救い主である赤ちゃんイエスの居場所を告げたベツレヘムの星に、彼らの人生の最も高い場所をあたえることで、そのココロは喜びで満たされたのだ。

ターシャ・チューダーは自画像をてっぺんで輝かせることはしなかった。むしろ、聖書でおとしめられているカラスを気の毒に思って、ツリーのてっぺんをカラスにあたえることで、救い主の降誕をトリ仲間に伝えたというカラスの伝説における名誉の回復を喜び祝った。

本日現在未完成である自分の人生のてっぺんには、まだ何も飾りがついていない。これから「なにか」がそこを占めるために空けてある。そこに自分は、いったいなにをつけることになるのか? もし自分の業績や功績を誇って自分で自分の自画像を自分のツリーのてっぺんにかかげるなら、そりゃあ世界で最も醜悪なツリーになってしまうよね。アブネー。アブネー。気をつけないと、やらかしかねないよね、自分。。。

その「なにか」は、なんだろう? 東方の博士たちやターシャ・チューダーのことを考えながら、クリスマスの飾りの箱のなかを探し続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?