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上を向いて生きよう。

自分の信仰。。。薄いなあ。。。

自分の希望。。。揺らぎがちだなあ。。。

自分の愛。。。弱いなあ。。。

ということを考えれば考えるほど、顔は下を向いて行く。

自分ばかりずーっと見ている限り、そうなるしかないわけで。。。

今日の聖書の言葉。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一 13:13 新共同訳

自分が勝手に「神学界のコペルニクス」と思って尊敬している小西芳之助(1898-1980)という牧師がいる。

なんでコペルニクスなの? と言うと、小西芳之助はローマ3:22の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」という聖句を、「イエス・キリストが所有し給う信仰による神の義」という意味に訳したい、と主張したことによる。

新約聖書が書かれてから約2000年というもの、ローマ3:22はずーっと「イエスを信じる信仰によって、わたしたちは義とされる」と解釈されてきた。イエス「を」だから、対格に取る訳し方だ。

ところが小西は天地を逆転させるかのように「イエスが所有し給う信仰によって、わたしたちは義とされる」という解釈を提案した。イエス「が」だから、これは主格に取る訳し方になる。

小西がこの主張をしたのが昭和40年代のこと。。。

それから50年以上経過して、いま、イエスを主格に捉えてローマ3:22を訳す訳し方は、最新の聖書翻訳に採用されるに至っている。

聖書協会共同訳(2018)では、このとおり。

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです。
ローマの信徒への手紙 3:22 聖書協会共同訳

また、新改訳2017では、本文にこそ採用しなかったものの、欄外註で下記のように別訳を示している。

イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。
ローマ人への手紙 3:22 新改訳2017

この「真実」とはギリシャ語の原語ではピスティス(信仰)だ。

つまり。。。

イエスの信仰(イエスが所有する信仰)によって、わたしたちは義とされる、ということ!

義とは、父なる神の心の完全な喜び、完全な満足ということだ。

こうなってくると、もうね、わたしの信仰・わたしの希望・わたしの愛は、ぜんぜん問題ではないことになる。

気に病む必要は無いんだ。「わたしの」に拘泥しててはダメ。

宇宙を開き、世界を開き、人生を開く鍵は、わたしの信仰・わたしの希望・わたしの愛には無い。ぜーんぜん、無い。

宇宙を開き、世界を開き、人生を開く鍵は、イエスの信仰・イエスの希望・イエスの愛なのだ。

なので、もう下ばかり向いて生きるのは、やめよう。そして、イエスを見上げて生きて行こう。

あなたがたは
キリストと共に復活させられたのですから
上にあるものを求めなさい
そこでは
キリストが神の右の座に着いておられます
*

註)
*  Cf. コロサイ 3:1

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