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クリスマスだからってことで新約聖書を読み始めて、系図でめんくらって断念した。なに、この系図? っていう話です。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、ひとくくりに「アブラハムの宗教」と言われることがある。

アブラハムは、クリスチャンである自分からすると、祝福の源、信仰の父、っていう扱いだ。

祝福の源って、どういう意味かと言うと。。。

「神」はアブラハムを通じて全人類が祝福にあずかるよう設定した、ってことなんだよね。

なんや、そんなの知らんがな、って向きがほとんどだとは思うけど。。。

まあ、神が「神」として決めたことだから、そういうことです、としか言いようがないよね。。。

で、その設定資料として書かれたのが旧約聖書の創世記だ。そのなかに、どのようにアブラハムが祝福の源になったかが書かれている。

じゃあ、どうやって祝福の源になったか、って言うと、それは「見ないで信じる信仰」によって、なったんだ。。。

今日の聖書の言葉。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブライ人への手紙 11:1 新共同訳

見ないで信じる信仰。。。ちょー難易度高そう。。。

具体的にアブラハムは、どう見ないで信じたか、って言うと。。。

アブラハムには長いあいだ後継ぎが生まれなくて、あきらめていた。

でも、そのタイミングで、なんと男の子が生まれた。その名はイサク。日本語にすると笑太郎みたいなネーミング。

そりゃ、笑みがこぼれるよね。念願かなって子どもを得たわけだから。

ところが、その子に関して「神」は矛盾するコトバをつきつけてきた。

ひとつは、その子の子孫は、宇宙の星の数より多くなり、地を受け継ぐことになる、という祝福のコトバ。

もうひとつは、モリヤの山頂で、その子を燔祭(焼き尽くすいけにえ)としてささげよ、という命令のコトバ。

これ、普通に考えたら、神は気が狂ったんじゃ? って思う案件だよね。絶対に矛盾してるもん。

その子を殺したら、どうやって、その子孫が宇宙の星の数より多くなれるのよ? ってことだから。

アブラハムは死ぬほど悩んだと思う。

そして、悩んで、悩んで、信仰によって到達した結論は、これだった。

この子は死んで、よみがえって、そこから
宇宙の星の数より多い子孫が生まれる

神は「神」だから、この子が死んでも、よみがえらせることができるはず。よみがえったこの子から、宇宙の星の数より多い子孫が生まれるに違いないはず、って。。。

すごい結論だよね。

もう、神が頭がオカシイばかりか、アブラハムも頭がオカシイよ、って思ってしまうんだけれど。。。

そこのくだりを、新約聖書は、こう解説している。

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
ヘブライ人への手紙 11:17-20

つまり。。。

アブラハムが「見ないで信じたこと」は、なんだったか、って言うと、燔祭としてささげられたイサクがよみがえる、ってことだったんだよね。

ところが、実際には、イサクは死ぬことはなかった。

モリヤの山頂でアブラハムがわが子に手をくだす直前、「神」はそれをストップさせたからなんだ。

殺しちゃだめだ、わかった、おまえが信じていることは、よくわかったから、って *。

いや、いや、いや、ストップするつもりなら、最初からそんなことやらせないでよ、って、言いたくなってしまうけれど。。。

このエピソードは、ユダヤ教とイスラム教も共有している。アブラハム、なんて従順なひとなんだ、すごいよね、っていう最高のレスペクトが払われている理由だ。

。。。なのだけれども、ただそれだけなら、物語として伏線を回収しきってないんじゃないのかなー、って思うんだよね。

どんな伏線が残っているか、って言うと、このライン。。。

この子は死んで、よみがえって、そこから
宇宙の星の数より多い子孫が生まれる

自分は、この伏線を回収するために新約聖書が書かれたんじゃないのかなー、って思っている。

新約聖書によれば。。。

神の独り子であるイエスは、モリヤの山頂、つまり、エルサレムで、全人類のための燔祭となって死んで、三日目によみがえった。

よみがえりのイエスによって、全人類はアブラハムを源とする祝福にあずかり、その数は宇宙の星より多くなる。

神は、わたしたちをキリストにおいて
天のあらゆる霊的な祝福で
満たしてくださいました
**

クリスマスが近づくと、イエスに興味を抱いて、新約聖書を手に取ってみるひともいると思う。

でも、マタイによる福音書1章1節、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト。。。っていうコトバで始まる長々とした系図にめんくらって、「だめだ、こりゃ」って投げ出しちゃうひとが多いんじゃないかなー。。。

しかしそれは、旧約聖書で未回収の伏線を新約聖書で回収するために必要な「つなぎ」として機能している系図なんだよね。

睡眠薬のように効果てきめんな系図を、眠らずに読み抜けて、新約聖書を読破できたら。。。

その新約聖書が言ってることを、ひとことに要約したら、こうなるんじゃないかと思う。

アブラハムが信じたように
見ないで信じる

アブラハムは、イサクのよみがえりを、見ないで信じたわけだけど。。。

その「見ないで信じる信仰」に倣って。。。

異邦人のわれわれは、イエスのよみがえりを、見ないで信じるんだ。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙 10:9 新共同訳

註)
*  Cf. 創世記 22:12
**  Cf. エフェソ 1:3

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