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誰かに何かを伝えたいと思う時、その先にはいつも愛がある。

何かを伝えたいと思うこと、それは愛だ。

と言われると、欧米に比べて日常から愛という言葉を発しない日本人にとっては少々重い話になってくる。
「いやいや自分はそんな大そうなこと考えてない」と思う人も多いだろう。
しかしながら、それを紐解いてみると、もっと単純明快で純粋なものだとわかる。勝浦雅彦の「つながるための言葉」の中ではこう記されている。

自分のことを伝えたい、わかって欲しい、の先には前述の「他者とわかり合いたい」という愛の感情が必ず入っています。真に愛のない人は他者とわかり合いたいなどとは思わないものです。愛とかいうものを意識せずとも、あらゆる言葉の根源にはきっと愛がある。

つながるための言葉「伝わらないは当たり前」(勝浦雅彦,2022)


いい曲を見つけた時、「この曲聴いてみて!」と恋人にSpotifyのリンクを送ること。
テレビで昭和歌謡特集をやっている時、「テレビ!昭和歌謡やってる!フジ(テレビ)!」と友人にラインを送ること。
美味しそうなご飯屋を見つけた時、「今度ここ行こう!」と約束すること。


そのどれも愛の上に成り立つ行為なのではないだろうか。
自分の好きなものを共有したい。教えてあげたい。そういう気持ち。
離れていても同じ曲を聴いたり、同じ番組を見たり、同じ時間を過ごしたい。そういう思い。
愛と聞いて一番に思い浮かべるであろう誰かを好きな気持ちや愛おしく思う気持ちだけが愛ではない。それは私たちが思っているよりずっと、身近にあるものなのかもしれない。


「自分をわかって欲しい」というのは単なるエゴではないかと、それが愛なのか?

前述した著を読んだ時、私はそう思った。
そして立ち止まった考えた。同時に自身の今までを振り返ってみた。私が自分をわかって欲しいと思った時、その根本には、その先には、何があるのか、あったのか、と。
私の中の答えは、あなたともっと長く一緒にいれるように、お互いを思いやることができるように、自分のことを知って欲しいしあなたのことも知りたい、というものだった。これは紛れもない、愛故の思考であると私は思う。


私は一対多数への講演や講座や、こうやって文字に起こす行為は得意だが、一対一で人と面と向かって話すことがあまり得意ではないと自分では思っている。それが大事な人であればあるほどに、だ。


自分の中にある愛を無下にしないようにしたい。
大事な人にちゃんと愛を伝えられる人になりたい。


死ぬその日まで、そうでありたい。


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読書感想文

先まわりしてここでもお礼述べておきます。ありがとう。Grazie mille!!