起源、余白、そして独創性。
今週は急に気温が暖かくなって花粉も飛び始めているのか、目鼻がムズムズする一週間だった。外に出歩くときはマスクを着けているからか、生活には大きな支障は出なくてホッとしている。
昔から身近な存在に感じているマスクは進化を続けている。素材、機能性だけでなく、窮屈さを感じさせない「心地よい」フィット感、衣服と合わせたときに「浮かない」ような洗練さまでも追求する精神性は「日本的感性」という気もしている。スタイリッシュなマスクも良いけれど、昔ながらの白布マスクも「懐かしさ」を感じられて、ホッとした気持ちになるのはここだけの話。
さて、今日も引き続き高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』をパラパラとめくりながら、紡がれる言葉に心がじんわり温まる。
高木さんのピアノ曲「Girls」のライブ映像を見ていると、高木さんがまとうやわらかな空気が、ありのままに自然で素朴で純粋な音となって降り注いでくるように感じる。
今日も、まずはエッセイ集からいくつか言葉を引いてみたい。
今回読んで印象的だったのは「まずほかの人がどうやっているのかを調べられるだけ調べる」と「誰かが用意した何かと何かの隙間、自分の居場所を見つけるのが大の得意」という言葉。
その言葉を受けて「その国や土地の歴史や文化を学んだり、本を読んだり、何かを学ぶこと全般に通じる」と感じた。
何かを研究する時、その研究の目的や意義は、過去の系譜の上でどのように位置付けられるのか明確にすることから始まる。つまり、可能なかぎり調べることのできる範囲で誰も研究していない、未開の領域、空白地帯を見定めてそこに貴重な時間を投じていく。そうして、人類は未開や余白を見つけては埋めてゆく営みを通して、科学を発展させてきた。
「何をすればよいのか、どのように進めば良いのかわからない」という時は新しさを追求するのではなく、むしろ過去に遡ってゆくことが大切なのだと思う。そんなことを思っていると、サグラダ=ファミリアなどの建築で有名なアントニ=ガウディの言葉が降りてきた。まさに、そうかもしれない。
活版印刷の登場によって蓄積された知識が広く行き届くようになり、今やインターネット空間上で膨大な知の蓄積に瞬時にアクセスできるようになっている。
膨大な情報の中から、どこにどのような隙間があるのかを探すのは難しいと感じられるかもしれないけれど、肩の力を抜いてよいと思う。もし何か取り組んでみたいことがあるならその事に関連する歴史や出来事など。取り組んでみたいことが分からないのであれば、直感を大切にしながら色々な分野にふれてみるのがよいと思う。
その意味でも本屋さんに足を運んで、気になった本を手にとって眺めてみるのはとてもオススメ。
本が目にとまる偶然性、予期せぬ出会い。本が向こうから飛び込んでくる感覚は、何かの縁のようなものを感じて、今すぐには必要とはならないかもしれないけど、いつか何かの役に立ちそうな気がすると思い手にとって積読しておく。すると、何かのきっかけで「これは何かありそうな気がする」という余白の香りが感じられたとき、ふと、その本に目をやると余白に気づくことも。
新しさは「偶然性」と「懐かしさ」で出来ている。
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