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初めまして,こんにちは。

皆さん,こんにちは。本日よりnoteを始めてみることにしました。最初の記事は自己紹介を兼ねて僕の生い立ちについて書いてみます。

私は現在アメリカイリノイ州のSchaumburgという街に住んでいます(シカゴから車で40分)。仕事は製薬会社で医薬品の開発をしています。医薬品開発を通じて世界中の患者さんに貢献することが私の使命です。

趣味はサッカー・フットサル,マラソン・トレイルラン,ボルダリング,読書です。

▶︎ 秋田生まれ埼玉育ち

私が生まれた当時,両親は東京都板橋区に住んでいたようですが,,母親の実家である秋田県で里帰り出産をしたため出生地は秋田県横手市になっています。その後,1歳くらいまでは板橋区に住んでいたようですが,その後埼玉県川越市に移り住んでおり大学入学までを埼玉県で過ごすことになります。

幼稚園の頃については『皆勤賞』だったことと『お菓子屋さん』になりたいと言っていたことくらいしか覚えていませんが,母親曰くどうやらガキ大将だったようです。幼稚園の教室で使う遊び道具を占有し,女の子も平気でいじめていたようで文字にするとただただ最低な子供ですね…ちなみに僕のきちんと覚えている最も古い記憶はおたふく風邪で幼稚園に行けなかった日のことです。おたふく風邪は『出席停止となるため欠席扱いにはならず皆勤賞には影響ない』ということを確認したことを覚えています(マイナーすぎる知識)。

小学生になるとサッカーを始めます(一番長い趣味になります)。小さい頃から運動神経が良かったので小学生の頃はフォワードでそこそこ点を取っていました。この頃はチームプレーなどは無視でみんなが団子状態にボールに群がるので足が速い子が活躍できるような時代でした。小学生4年生までは周りと比べても足が早かったので,運動会の50/100メートル走では常に一番でしたし,持久走大会も4年連続で1位を取っていました。しかし,小学生高学年に入った頃から周囲と体格差が出てき始めて,身長の低かった僕は短距離でも長距離でも周りについていけなくなりました。

中学生になってからもサッカーを続けていましたが,学年でトップクラスに背が小さかった僕はもはや周囲のプレーについていけなくなっていました(クラスの整列時には一番前でした)。それでも,試合でレギュラーから外れるのは嫌だったので背が小さいながらも練習を頑張って,中学2年生の頃には川越市の選抜に選ばれたりもしました。しかし,なかなか身長が伸びない僕と周囲の体格差は広がるばかりで,中学3年生になる頃にはサッカーに対する熱は冷めてしまっていました。僕の所属していたサッカー部では春の大会で引退して受験勉強を始める選手と夏の大会で引退する選手がいましたが,僕は春の大会で引退して受験勉強に専念することにしました。この頃の僕は不思議と勉強をすることが好きで自ら塾に通いたいと言い出し,気付けば学区内で最も偏差値が高い県立高校に合格するまでになっていました。余談ですが,私の家庭は決して裕福ではなく,私立高校に行かせてもらう余裕がなかったため,滑り止めは全て私立高校の特待生で学費がかからないようにしていました。

高校に入ると勉強が好きだった僕はすっかり勉強をしなくなり,部活にも所属せず堕落した日々を過ごしていました。ちなみに,僕が通っていた高校は男のシンクロでお馴染みの『ウォーターボーイズ』のモチーフになった高校で,文化祭で男のシンクロを披露していました。映画が放映された年の文化祭では来場者が3万人を超えていました。

高校時代に全然勉強をしなかった僕は当然受験勉強に成功するわけもなく(というか受験が近づいても行きたい高校や目標がなかった),浪人をすることになります。当時特別な目標もなく何者でもなかった僕ですが,それでも社会にできることがあるとしたら医療に貢献することかなと思うようになっていたため,医学部を目指すようになります。しかし,医学部受験はそう簡単なものではなく,2浪の末,薬学部に進学することにしました。

▶︎ 大学は岐阜へ

浪人2年目の受験では前期で医学部に落ち,後期には滑り止めで都内の農学部に受かっていましたが,医療の道に進みたいという思いもあり,最終的には中期で受かっていた岐阜薬科大学に進学することにしました。薬学部だったので大学には6年間通っていましたが,かなり濃厚な時間を過ごせたと思っています。前半はサッカー部(特に部長を務めた1年はつらかった),後半は研究室(マウスと格闘する日々)と就活。この頃に出会った先輩や同期が今の自分を作ってくれたと言っても過言ではありません。心からそう思えるほどに素敵な出会いがありましたし,医学部受験に失敗したことも良かったと思えるほどです。大学時代の話を始めてしまうとものすごく長くなってしまうので,いつか別の記事で書こうと思います。そんなこんなで,大学5回生の頃には忙しい研究室生活の合間を縫って,睡眠時間を削って就活を行っていました。あの頃は誰よりも自分が努力しているという思いだけを頼りに就活を頑張っていました(朝から日付が変わるまで研究をして,そこから就活をしていました)。その頃の生活を支えてくれていたのが今の妻です。就活は自分でも想像していなかったほどうまくいき,大学6回生は国家試験の勉強と卒業論文の作成に明け暮れて,無事に卒業することができました。

▶︎ 製薬会社に入社したその後

私が入社した会社のオフィスは東京都板橋区にありました(現在は中央区日本橋に移転しています)。私の仕事は治験を通じてヒトにおける医薬品候補化合物の安全性と有効性を確認することです。医薬品を世の中に送り出すことができる非常にやりがいのある仕事だと思っています。2013年入社時には消化器系(下痢型・便秘型過敏性腸症候群(IBS))の医薬品開発に携わっていました。2015年からはオンコロジー(癌)グループに異動して,それ以来抗がん剤の開発に携わっています。2015年の異動時点で実用的な英語能力が全くなかった僕ですが,当時の上長たちが英語に触れる機会を積極的に与えてくれました。そのおかげもあって,2019年10月からは駐在員としてアメリカのオフィスで仕事ができています。

だいぶ長くなってしまいましたが,これが私の現在に至るまでの生い立ちです。今後は私の経験から少しでも皆さまのお役に立つような情報を発信をしていきたいと考えています。どうぞよろしくお願いします。


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