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今思えば②「実存と本質」老いと時間

あなたは、自分をコントロールできている、この
〝当たり前の前提” がなければ、
仕事にしろ何にしろ 社会生活≒社会契約は成り立たない。
まあ、当たり前すぎて 考えもしないです、普通は。
私もそうでしたが、
この1年、父を見てきて、父に振り回されてきて
「認知機能」なる、私達の社会生活の前提が、
それ自体は
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」
なのに、
何でこんなに硬直しているのか、考えるようになった。
人間のあるべき姿、理想を規定する構造 と 
老い、という流れの中にある我々の社会、構造の中身の否応ない変化。

何が問題なのか?
わかっているのに、わかりきっているのに
なんだか
綿にくるんで、正視されていないように
私には思える。
枠組みは変わらず、中身の流体は出口も見つけられないならば、
その水のよどみを
失くすことはできるのだろうか?

生まれた時も、心身共に老いた時も
身体は自由にならないし、考えることも伝えることも難しい、
という点で一致している。
映画「ベンジャミン・バトンの数奇な人生」に描かれたように。
「人間」として人間らしく「在る」期間は、生と死の中間の数十年だけ。
老人として生まれ、赤ん坊になるんだとしたら
私達は老いをどう捉えるだろう。

現実の世界では、
赤ちゃん→成人≒老化前≒社会生活可能→契約する
社会生活≒人生謳歌≠生物としての生←老化→死
かくして、
人生の中心部分を過ぎれば、体の不自由だけでなく、時間と共に
自分自身を忘れ去り、かつての人生は行方不明となって
つまり〝契約”が取り残される。

契約社会が誕生した辺りでは、
生まれ そして老いたその先に、さらに長い年月や
複雑な病態の認知症を想定していなかったんだね、たぶん。

生存、それがなんたるか については
私は、詳しく存じませんが、厳密な段階的定義があるのでしょう。
宗教上の、或いは哲学的な考え方の違いもあるでしょう。
そこは、よく分からないのですみません😢
ただ、まぎれもなく、この世界に生存している、我々。
その在り方は、実に多様で、
目的があろうがなかろうが
社会を構成する自覚があろうがあるまいが、
考える主体を意識していようが、いまいが、
多様な在り様で、「在る」し、また「在り」得る
権利として、社会に、いくらでも好きなだけ「在り」得る。

自分の本質を見失っていても。

心をどう捉えるか、について これまで人間はたくさん考えてきた。
思想史をたどれば、歴史の時代の括り中で 模索が続いてきたし、
それは、今も続いている。
サイエンスは今や、
科学への宗教的盲信の時代から、更に神秘的領域へと、ぐいぐい進んでいる。
ミクロな話から、脳科学、発達心理学、量子物理学、ホログラフ宇宙論、と
この宇宙をエレガントに明らかにしようと、
或いは、様々な社会課題を解決しようと、猛スピードで
あっちでもこっちでも、努力が重ねられている。
頼もしく思うし、楽しみである。

一方で、とんでもなく馬鹿げた殺し合い、戦争は今も続いている。
無論、これにも前提がある。過去が違っていたら、今も違ったものになっていただろう。しかし、私達の時は先に向かって進むだけだ。
苦しみや不安、悲しみの中にいる人々のことを思う。
やられたからやりかえす、殺し合い、を今後も繰り返し続けてはいけない。
人間は、誰でも いつかは死ぬのだから。
人間として、主体的に生きる時間は、限られているのだから。

第二次大戦中に青春時代が過ぎてしまった父も
爆撃で破壊された、戦地の映像を見れば「やめろ」と言いたいだろう。
ただ
今はもう、父の心は、父の「本質」、かつての自分、
考えの主体を見失っていて
専ら「ビールを飲ませろ」「金をよこせ」意外に、気が回らないようだ。

人生の始まりと終盤の時間においては
自身の本質を自覚する事、それを表現する事が困難、だと言えるだろうか。
しかし、映画はフィクションであって、
認知症あるいは歳相応のボケ状態と老いた身体、と、対極にある
赤ん坊の無邪気さ、成長性とを
時間の流れに逆行させて乗せることはできない。
老いることは、時間の経過の結果であって
死の前段階だから。

つまり
人間が、長く生きた、その時間の向こうでは
人間の本質が、そこにちゃんとあったとしても、
時々、かなり、まともだとしても
往々にして、自分ですら自分を見失ってしまうってことを
前提に
社会の構造を作る方がよくないでしょうか?

自分らしくいられる時間が、長いか短いか、
脳の機能が低下するかどうか、は
決まったことではなく、不安定で曖昧で、個人差が大きいため、
ここまで、ここから
という線引きはできないかもしれない。
しかし、
認知症、って医師の診断書があるかどうか、ではなく
十分時間が流れたら、それ以上は
社会人として契約はできないってことをはっきりさせるべきなんじゃないだろうか?
なんでできないんだ!って声が上がるから、無理ですかね?○○党さん?
個人の権利だよ、自由だよ、老人いじめだ、
そうですか?

90過ぎてもシャンシャンしてる人もいますよね。
でも、ほとんど、多くの超高齢者は、介助が必要です。
私の父は、やっと施設に入ってからも、止めるのも聴かず、這うようにして区役所に行き、私には伝えずに
マイナンバーカードの番号変更をしたり
銀行やら、色んな人に不要な電話を掛けたり、不要な買い物をしたり。
そうして何かをしては忘れ、私に盗まれたと怒鳴り。。
でも
在る時点に、他人から見ると、足が不自由なだけで、しっかり考えているように見えるんです。かつての自分が、そこには、ちゃんといる。
自由にさせろ、自分のことは自分でする、という
成人の権利主張を、当たり前のようにする。
それが傍迷惑で見当違い、ばかりでも。

代理手続きができるとしても、そりゃ大変です。子ですら大変。
本人の意思確認が必要、ご本人様自著の委任状が必要、はっ??
一緒に暮らしているのか?・・・ならできません・・などなど。
もうええわ!おばちゃん、何度かキれたわ😎

車の運転をとってみても、
何歳になったらダメとは言えない、 
高齢者に 運転の可否の線引きをすることがいかに難しいか。
十把一絡げにはいかないよ。
「権利」「公平」の名の下の、危険で面倒なぶっとい枠組みを
見直さないままで、
少子高齢化がこのまま進んでいくだけなんだろうか。。

謳歌してきた人生の記憶は、学び働き、努力して勝ち得た人生だ、という自負。折に触れ思い出し、味わうもの。
人が生まれてから、過ごしてきた時間、それが老いの「本質」だろう。
私も父も、失礼だが 貴方も
今この時間老いている。老いを賜るというべきか。
哲学において「実存」と「存在」は異なるそうだが、
いずれにしても、自分自身の実存は、自分にもよくわからないものだが、
私自身も、変わっていくのだろう。
父は私に、時間のその先の現実を知らせてくれている。

なのに、
昨日も「くそ爺!」と言ってしまった。
ごめんなさい。
紙面をお借りしてお詫び申し上げます。見ないだろうけど。。

何の参考にもならない
おばばの反省です。失礼しました。
おさんぽでした。