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オタク文化における「女性キャラ」という絶対的正義について語ってみた

例えば想像してみて欲しい。
あなたが劇場に行って、ランダムにキャラの絵が描かれている入場者特典を無事もらえたとする。逸る気持ちを抑えながらシアターの席に座り、まずは一息つく。そして、満を持して開いた包装の中身が、実に良い表情でサムズアップする男性主人公の絵であったとしたら、あなたはどんな気持ちになるだろうか。
きっと、その主人公の笑顔とは裏腹に、とても残念な気持ちになっているに違いない。なんなら、この後見る映画の評価にも影響しかねないぐらいである。

なぜ、このような現象が起きるのか。
それは、「男性キャラには商品的価値がない」からに他ならない。

もちろん、想定すべき例外的な場面が多々あることは否定しない。
ただ、ほとんどの場合において、積極的に男性キャラのグッズを欲する男性オタクは皆無なはずである。

夏アニメで話題になっている『リコリス・リコイル』にしろ、アイドル作品の代名詞となった『ラブライブ!』シリーズにしろ、モデルとなった舞台の「聖地化」による町興しの成功例となった『ガールズ&パンツァー』にしろ、数多ある日常系作品にしろ、花の女子中学生や女子高校生たちが主役の物語であるからこそ魅力的なのであって、この性別が全て逆転してしまったらこれほどの価値は生まれたといえるだろうか。答えは“否”である。繰り返し言う。答えは絶対に“否”である。

ただ、これは作品において「男性キャラの設定は重要ではない」とは、けして同義ではない。例えハーレム系作品であったとしても、“魅力的な男性主人公”の存在は実は不可欠なのだ。男性主人公は、いわば読者や視聴者が最も親しみを覚え、自己の欲望やロマンを投影させる非常に重要な存在なのである。かの『この素晴らしい世界に祝福を!』にしてみても、主人公のカズマの軽妙でお調子者なクズキャラ要素がなかったらこれほど文字通りの素晴らしい作品にはなっていなかったことは想像に難くない。
その他、『グリザイアの果実』シリーズの風見雄二なども、ヒロインの魅力を引き立てるという役割において、自らも主人公として強烈な個性を放ちながら男性目線からも好感が持てる主人公の典型例である。そして、岡崎朋也の存在しない『CLANNAD』など、誰も想像もできないだろう。

ただし、それでも女性キャラの優位は揺らぐことはない。作品を形作るにおいて、「女子高校生がやるから面白い」場面など、それこそ湯水のように溢れている。彼女たちは存在そのものに“萌え”という武器を有しており、ただそこにいるだけで「商品的価値=ブランド力」を手にしているのだ。
この“萌え”の要素は、男性キャラがどんなに血涙を流して頑張ろうとも手に入れることの叶わないものであり、一方、女性キャラであれば、例え知らないキャラであったとしても、そこに1枚のイラストさえあれば強烈な魅力を振りまく武器となり得るのは、抗えない事実である。

ただし、どんな世界にも例外は存在する。
『サクラ大戦』シリーズの大神隊長に至っては、しばしばヒロインを押しのけて本シリーズの魅力の一番手に挙げられることもあるほど男性ファンからも熱烈な支持を受けている主人公であり、自分自身、大神隊長ならランダムグッズで引き当てても微塵も後悔はしないだろう。
また、『Fate/stay night』のアーチャーなども、男性ファンにも人気のあるキャラの代表例であり、錚々そうそうたる顔ぶれの並ぶヒロインズを差し置いて、人気ランキング上位の常連となっていることは周知の事実である。
両者に共通するのは、“萌え”はなくとも勝負できるだけの魅力を備えているという点であり、特に“男は背中で語る”生き様こそが男性ファンから見ても“カッコいい”と感じさせる一番の理由だろう。その要素こそ、現状で男性キャラが女性キャラと対等のブランド力を勝ち取るための唯一の方法といっても過言ではないかもしれない。

また、さらなる例外として、「スポーツ系作品」と「格闘系作品」というジャンルが存在する(「格闘系作品」の定義としては、魔法や超能力等の要素のない純粋な格闘技を扱う作品)。
両者に至っては、「本格派」を謳うなら男性キャラが中心の顔ぶれになるのは必然であるし、読者・視聴者もそれを望むであろう。もちろん、魅力的なヒロインがいるに越したことはないのだが、それはいわば副次的要素であり、突き詰めていけばやはり「男の世界」であることは揺るがない。
昨今は、従前の男性キャラ中心の「スポーツ系作品」は成功させるのが困難であるとされている風潮もあり、『球詠』や『さよなら私のクラマー』のように、野球やサッカーといった男性のイメージが強い競技にも、スポーツ女子が続々と進出して人気を博している。ただし、個人的には女子スポーツ作品は男性のそれとは似て非なるものであると思っており、こちらについては機会があればまた改めて語ってみたい。

つまるところ、男性キャラが女性キャラに対抗し得るだけの「ブランド力」を有するのは、一部の神懸かり的な魅力を持ったキャラや、限定されたジャンルにおいてのみとなってしまうのが現状である。だからこそ、制作側としても女性キャラ中心の作品を作りたくなるのは必然であるし、それが読者・視聴者の求めていることにもそのまま繋がっている。

これを象徴する実例として、『宇宙よりも遠い場所』と『グッバイ、ドン・グリーズ!』の2作品がある。両者ともいしづかあつこ監督による高校生たちの青春を描いた作品であるが、両者の評価は対照的といっていいだろう。両作品を履修した身としては、ストーリーの質としては双方とも甲乙つけがたいものであったように思う。ただし、両者には決定的な違いがあり、それは言うまでもなく前者が「女子高校生」、後者が「男子高校生」が主役の物語であったという点である。
それは残酷なまでの結果の差として表れた。もちろん、監督は『グッバイ、ドン・グリーズ!』において、男子高校生が主役だからこそ描くことのできる物語を我々に提示してくれたはずだ。しかし、その点を差し置いてでも強引に女子高校生の物語として制作していたらこうはならなかったのではないかと思えたのがひたすらに悲しかった。

女性キャラのブランド力は、オタク文化において絶対的正義として君臨し続けている。それは否定しようのない事実ではあるが、けして真実ではない。
自分がこれからのオタク文化に求めたいものは、その事実に甘んじた量産型の作品群ではない。その常識を覆すような新たな価値観の創造である。
挑戦にはリスクは付き物である。しかし、それに怯えて既存の価値観のみを尊ぶのではあまりにもつまらない。
自分も凝り固まった思考を柔軟にして、新しい価値観を創造していきたいし、当然制作側にも同様の思考を期待したい。
まさしく「温故知新」の精神が、これからのオタク文化の発展には求められていくのではないだろうか。


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