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3月13日 体が年老いても、中身は大したことがない、ということを、子供時代初期にはあまりわかっていなかったが。

善や美などもっとも大切なことについて「知らない」(不知)という自己のあり方を自覚しながら、知を求め続けることでより善く生きようとすること、それが「フィロソファー」(哲学)であり、私たちのだれもが追求すべきあり方である。
 「プラトン 理想国の現在」 納富信留著 P.105 

おとなはランベルト君のようにキャラメルをもらってもチップをもらっても、そんなことではよろこばない。働くよろこびも評価されるうれしさもあるが、それだけでは気持ちが晴れないのだ。あれやこれやで心が占められ、一日じゅう何かを考えてしまうのである。子供の先はおとなだが、おとなの先はない。波止場どまり。そこからは茫洋とした海が見えるだけ。ずっとおとながつづくのだ。考えるしかない。思うしかない。
荒川洋治 「日記をつける」 岩波アクティブ新書 2002年2月刊。P.16。
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最近思うのは、この肉体の中に我が魂があるのであれば、それはさっぱり進歩していないなあ、ということ。なんなら、子供時代のほうがなんというかピュアであった。

慣れ、心臓に毛が生える、経験を積む。

いろいろ言われ方があるが、そういうことでごまかすのが上手くなっただけのようだ。

だが、上記2氏のコメント(著作)を読んでいて、結局みんなそうなんだ、だが、大したことない自分だが、真実と美に近づきたい、と思うことだけはできることに気づいた。

荒川さんも言っている。「考えるしかない」「思うしかない」、と。

我が敬愛する池田晶子さんの著作オビにもあったではないか。

「悩むな!考えろ!」と。

経験が増えることと、ピュアであることは、普通は両立しにくいだろう。だが、そのことに意識を置いていれば。

さよならソクラテスシリーズ、池田さんが素晴らしい口語調で語られた本で、池田さんはソクラテスに言わせている。

「僕は生きるために食べている。食べるために生きていない」と。

そうはいっても、食べ物がないと生きられない。食べ物を得ることが困難であれば、そのことで頭がいっぱいにもなるだろう。そこから出発すると、「生きるために食べている」人にはともすればカネの心配をすることがないからだ、という事も言いたくはなるだろう。優雅なもんですな、と。。

このルサンチマンが、「哲学」や「詩」を、不要なものとして葬ったのかもしれない。

「実」のない学問。

いや、そうであっても、結局人は真実や美を求めるものなのではないか。
それこそが、本当の「実」ではないのか。

ここでいう「結局」は、もし「リインカーネーション」派であれば、「この生ではなく。」という注記が入るのかもしれない。だがどうなのかは「今生」ではわかるまい。少なくとも全く「前世感」のない私には。

全ては「考える」にある。「考える」でしかない。生きることに「正解」はないだろう。勝手にそう思ったとしても、手ごたえはすぐに「するりとすりぬけて」しまうだろう。

そんな惑いの中に、夢うつつで漂う事が、あるいは「生」であるのだろうか。

(2月は池田さんが亡くなった月なので、すこしそういうことを考えがちですね。。)





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