日記5月24日(月)。 #日記 見つける。
世界は不思議で魅惑的なものに満ちている。研ぎ澄まされた感性をもつ者が訪れるまで、それらは静かに隠れているのだ。
W.B.イエイツ
幸せというのは、このように小さなものを見つけて拾い上げることだ。いつも探していれば、どこにでも落ちている。探さなければ見つからない。見つけられないから、自分は不幸せだと思い込む人が多いように見受けられる。後悔というのは、過去にまで遡って、不幸せを探しているようなものだから、幸不幸どちらも、結局は本人が探して見つけている、という点では同じだ。歩いているのは、誰でも一本道。そこに落ちているものも大差はない。拾い上げる目と手が違っているだけである。
森博嗣 つぶさにミルフィーユ P.143 「ここへ来てよかった、という肯定こそ、幸せの手法である」
少しく共通点のようなものを感じて、イエイツと森博嗣氏の文章を並べてみた。誰でも”生まれてしまった、あとは死ぬまで生きるしかない(BY 池田晶子)”という認識の中で、意味がないと思いつつ辿る一本道のそばに咲いている花々。
それは実際の花々、季節の花々にも似て、時に麗しく、時に雑草のように見逃してしまうのだが、だが雑草は自ら雑草と名乗るものではない。
そこで足を止めれば、イエイツがいうような驚異が隠れているかもしれないし、隠れていないかもしれない。
つまりは、丁寧に生きる、ということだろう。
それも、”人に言われてではなく、自分から望んで”。
青い鳥を探すチルチルはもとからそこに青い鳥がいたことに気付く、というのが私の童話”青い鳥”の理解だが、これは合っているのかどうかはわからない。
だが、ここでないどこか、と思った瞬間、今をないがしろにしている。今の自分を否定している部分がどこかに、”一ミクロンでも((笑))”あるのだろう。
ちょっとした違いが善悪の違い(無いのかも)位に違っている。
ちょっとした気づきで、生はそのままの姿を現す。
現実とは何か。
考え、とはなにか。
”考えない”とはなにか。
考えないことはよくはないとわかっていても、それが”魂が選んだ”生存手段であることもある。人間、結構しんどい時もあるだろう。
どちらも、いいも、悪いも、無いような気がする。
あるがまま。
(あるがまま、はいいですよね)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。