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10月31日 はじめに言葉あり、の「言葉」とはなにか。「コトバ」と表記したときの感触の違いも含めて。

今日の体重65.1kg、体脂肪率9.1%。

昨日は帰宅後食べ続けた。パスタに玄米。鶏肉200gに味噌汁。
体重がどれだけ増加したか、と心配したが、ものすごくUPしたわけでもない。だがこれを続けると急に太る気がしている。

昨日はスポーツセンターへ行った。1時間40分。10分のあんま機?があるので、実際のトレーニング時間は1時間半である。休みながらやっているので、実際に鍛えている時間は、週に2回行っても計2時間以内だろうとは思っている。

鍛えることは、肉体の強化にはつながるし、精神の安定や高揚にも効果はあると感じているが、一方で肉体をいじめている面もあるだろう。ランニングより徒歩の方が体に優しいのと同じ理屈である。

そういう意味では、1週間あたりのトレーニング時間は2時間に抑えるべし、という意見を聞いたが、さもありなん、といったところだ。あまり長時間やらず、出来るだけ限界に近い重量を、出来るだけ短時間でやろう、と思っている。

また、重量を他人と比較する気持ちが、最近はだいぶないが未だ皆無ではない。別に重量が多ければいいのではない。どう効果を出すかである。そういったことも考えながら鍛えてゆきたいと思っている。


さて、井筒俊彦「意味の深みへ」を最近あまり読んでいなかったが、イスラムの項から真言密教の項に来たのは前にこの欄で書いた気がする。

それは真言密教が本来的、第一義的に問題とするコトバというものが、我々の普通に理解している言語とは違って、いわばそれを一段高いレベルに移したもの、つまり異次元の言語であるということである。

意味の深みへ 井筒俊彦 P.272 岩波文庫

やはりそうであるか。

存在はコトバである、という命題を見た時、そうかもな、というのと、そうか?という両方の気持ちが湧いたものだ。

昔の私であれば

そうか????

というクエスチョンしかなかったかもだが、例えば聖書で

はじめに言葉あり

なんて説かれると、

うーん、言葉とは実はすごいものかもしれんなあ

などという気分になる経験なども想起して、

これはなにかすごいことを言おうとしているし、第一印象で退けてはもったいない考え方かもしれんな

などと思うのである。



。。。まあ、今は思うだけ、というレベルでは、あるのだが。。。

(ノンフィクションもいいのですが、頭のストレッチ的にこういう本を読むことも必要ですねーーー)


お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。