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日記3月19日。 #日記  善悪の区別。

今朝の体重(朝食後)は67.4kg、体脂肪率は13.1%であった。一昨日が69kgであったので、1.6kg減った。昨日は昼食抜き、歩数14559歩でこんな感じである。もともと昼食ではほとんど白米を食べていないので、抜いてもあまり変わらないのかもしれない。だが抜いても空腹感がない、ということはやはりすこし個人的最適体重ではない、ということかもしれない。

右側の腰が痛いのだが、これはやはり正月から左側の股関節が痛くて右側に重心がずれていたことも関係があるのかもしれない。またストレッチでずれをなおそうとして、強めにグイグイ押しすぎたのもいけなかったのかも。

今週月曜はトレーニングを休んだが、本日は様子を見ながら慎重にやってみようかと考えている。

山岸俊男「安心社会から信頼社会へ 日本型システムのゆくえ」(中公新書1999年)を読んで、日本社会が”個人が、社会の仕組みが生み出す安全性に依存し、自ら外界全般(人間関係、社会経済的リスク、自然天災リスク)に対するリスクをあまり取らない、取る必要のない社会”から、否応なくアメリカのような、”異人種がるつぼのような世界のなかでぶつかり合い、社会の仕組みへの依存がそもそも不可能で期待できないため、自らで責任を取りたくなくともとらざるを得ない社会”へと変わりつつある現状について学ばせてもらった。

こうした変化は「社会的ジレンマ」により発生するものであると理解したが、このジレンマのことを考えると思い起すのは、そもそもある行為の善悪の確定が難しい、ということ。

行為は、閉じた世界や個人の論理上ではもちろん"善”であることしかなされない。やむにやまれず、仮に世間一般では”悪”と言われることをなしたとしても、それはあくまで”自身にとって善であるからなされる”。すべての行為は ”善の意識” によりなされる、といっていい。

”悪”はどこにあるのだろう。人殺しも戦争中は善であり、戦後には再び”悪”のカテゴリーに戻りがちだ(戻るかどうかはケースバイケースと思われるが)。悪と善の明確な区別は果たしてどこにあるのか。

昭和期の仮面ライダーの衰退と、平成ライダーの盛り返しを見て思う。いわゆる”ステレオタイプ”の悪が大衆に”理解”されていた時代が終わり、”悪そのものの悪””好敵手たる悪”の設定が上手くできなくなったのが昭和ライダー終焉の理由のひとつであったと。ヒトラーをイメージさせる”ゾル大佐”の例を見てもわかるとおり、観客顧客そして子供達はそのころは”分かりやすい悪”のイメージを容易に得られた。いわゆる”冷戦の時代”であった。007で見るような、西側対ソ連、”善対悪”、核スイッチを押せば世界は滅亡する、という絵がとても分かりやすかったのだ。

その後そうした図式が描きにくくなった。無理して描いても嘘っぽく、デザイナーの方には申し訳ないが、造形面でも”魅力的な悪”や”魅力的な怪人・怪獣”はどんどんどこかにいってしまった。唯一”悪”が魅力を持つのは、”悪”が”善”に寝返るとき、悪が善の要素を垣間見せる時、そして悪がより大きな悪にたてつくことで結果的に善となってしまうパターンだろうか。

村上春樹が、その対比を、”オープン”と”クローズド”という形で示されていた。オープンとは例えば世界全体が冷戦構造により説明できた時代。説明が出来なくなった時代と合致する1995年に、クローズドで世界を再構築したオウム真理教が、その世界に住み、取りこまれた信者を使ってサリン事件を起こした、という構図を示される。

冒頭の書を読みながら、では日本はどうすればいいのか、存在できなくなった”同一性・流動性の低い農村社会を基本とした忖度・同調圧力の強制をその維持手段とする安心社会”から”社会の仕組みが無く、あっても頼みにできない、したくともしようがないところから自己判断にて相手(事象)を全身全霊で確認し、その結果を信頼する信頼社会”にかわってゆくには一体どうすればいいのか、ということを考えた。

妙案がないのだ。そういう変化は、できればやりたくないからだ。

楽な部分はただ乗りしたい。いままでOKだったことは(心の底では駄目かもと思いつつも)、いままでどおりという振りをすることによって、できるだけ長い期間、ただ乗りしたい。

贅沢を知ってしまうと、もう貧乏には戻れない。例の食べ物がないならお菓子をたべろ、というマリーアントワネットは、悪気のないただ乗り者だ。彼女がことさらひどいわけではない。単にたまたま端境期に生まれ、その場に居合わせただけだ。その前の王侯貴族、ほぼ全員がそう思っているはずだ。彼女は言い方が稚拙で、リスクを感じて言葉を発しない、という機能の発達が不十分だっただけだ。

しんどい信頼社会への移行は、もうまったなしだ。既に世界は変わっている。息苦しいが、あまり考えなくともよいぬるま湯不自由世界は、既に去っていってしまったのだ。

そうした時代のよすがとなるものを提案してゆきたい、と村上春樹は言う。文学によって、戸惑い孤立無援の、たとえば簡単に無間地獄たるオウム奈落に落ち込んでしまうような震える魂に、一抹の灯火を示したい、ということか。子供を持つことがなかった自分が、とおっしゃるが、子供がいたら伝えたいこと、ということになるだろうか。正解がどうかわからないが、このように自分は考えてみたが、どうだろうか、とジワリとどこかで子供と語り合う話。その場は例えば、ひなびた温泉で肩をならべて、という体、なのかもしれない。

(ひとに伝える、ということの難しさと大切さを思います)


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