ソフィ・カル 限局性激痛をみて

ソフィカル展の感想の続き
原美術館では、1階、2階を通して、
若きソフィカルの冒険というか
恋人を思う気持ち、その人との物理的、心理的距離感の変化を表現している。そしてその痛みがどれほどに大きかったのか、また時間とともにどう変化していったのかを美しく表現している。

私の友人は、2階の、想念が強すぎる作品に気分がわるくなってしまったそうだ笑。 他者にとって、一つの失恋エピソードにすぎないけれど、こういう風に、視覚的に表現してもらうと、自分の中にも、過ぎ去ってしまって、消化、風化してしまった痛みも、当時はとてつもなく自分の身体を切り裂く様にかけめぐっていたのかもしれないと思わされた。彼女や誰かのとても個人的で強い感情が、結局強く自分自身の中に響いて、自分の中のなにかをさぐろうとさせる。すごいコミニュケーションである。

ただただ、自分をさらけ出している。そんな印象を持ったひともいるかもしれないけれど、彼女の目的はそこにはない気がする。限りなく繊細に、自分の変動を可視化して成仏させてあげる、、そしてそれを他者にもちゃんとなげかける。その対話は、全体の緻密な構成によって考えられていることがわかる。

そもそも自ら怪我をしに行くように彼女は滞在先を日本に選んだような気がしてならない。何がおきるかわからない、関係性の崩壊の危険があったとしても、
相手を、自分をより深く知れる機会のほうを選んだのか、、
そんな彼女の精神性を何よりアーティスティックだと思う。

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