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マーシャ・P・ジョンソン その生と死

世界ではまだLGBTQへの風当たりはつらい。一方でその権利が認められているような国でもたびたび憎悪による暴力や犯罪は後を絶たない。私の住むアメリカでは、特にトランスジェンダー女性がその犠牲になる事が多く、トランプ政権になってからというもの露骨にその数字が上がり続けている。それまでは犯罪に巻き込まれる多くのトランスジェンダー女性が夜のストリートで働くセックスワーカーであったり、そうと知らずにいい関係になり事に及んだ時に気づき、逆上されてパニックになった相手から殺されたりするというケースが殆どだった。
しかし最近では、ただLGBTQであるというだけで殴られたり、罵声を浴びされ、その事を隠していかなくては自分の身の安全も保障されないという事態まで陥っている。バスに乗っただけで、学校に行っただけで、道を歩くだけで、理不尽に罵られる、笑いのネタにされる、暴力を振るわれる。
生きている事って何なんだろう?自分らしくあるって、何なんだろう?外に出るのをびくびくしなきゃならないのって、迫害でしかない。憎悪犯罪をする人って、一体何を恐れているのだろう?国を取られる恐怖って漠然としすぎていやしないか?種の消滅の恐怖って、そりゃ人類が生きてきて凄い年月が経っているのだから、純粋な人種なんてそもそも幻想のようなもんで、人種自体が派生なのだから、消滅ではない、と考える事は出来ないのだろうか?私達は歩み続けて行かなくてはならない。他者を認める事で世界が広がり、思ってもみなかった発見があったりする。楽しいはずの人との関わり、しかし世界で主導権を握る人々が今不安定で劣等感の塊のようで、それに先導された若者たちや偏った人たちは、まじめにその主導者に従い支持するのだから堪ったもんじゃない。人々は一体歴史から何を学び、なぜ間違った歴史をそうと知りつつ繰り返すのだろうか?
Netflixで一本の興味深いドキュメンタリーが公開された。デヴィッド・フランス監督「The Death and Life of Marsha P. Johnson」である。
1969年のニューヨーク、ストーンウォールインで起きたLGBTQへの弾圧に反する暴動で、シルヴィア・リベラと共に中心に立っていたドラッグクイーン、マーシャ・P・ジョンソンの遺体がハドソン川で見つかったのは、1992年7月6日の事だった。
死体を見た人々の中には、頭に穴が開いていただとか殴られた跡があったとか言う者がいたが、死因は自殺で片付けられ、数々の謎を残し25年も忘れ去られたままだった。しかしその死に納得のいかない人間は多く存在していた。そのうちの一人、トランス女性アクティビストのヴィクトリア・クルズは、自分が活動からリタイアする前にどうにかしてマーシャの死の真相を突き止めようと決心するのだった。何かをする、それはとてつもない労力と精神的苦痛が伴い、執念や粘り強さというものが無ければ成し遂げる事は出来ない。それが政府に対してだったりすると、ますます困難で途方もない道のりになる。大抵の人は気力だけあっても、成し遂げる事は出来ない。ましてや二十五年前に起きた、人権も認められていないような人間の死の真相である。徐々に権利は認められるようになってきたけれど、最低の人間にもあるはずの人権がない、守られない人間が存在する事自体がおかしい。トランスジェンダー・異性装である事を理由に彼女らは、刑務所にぶち込まれた、迫害された、仕事を失った、家族を失った、友人を失った、住む場所を失った。
私の連れの父親は、ずっと一人の人間と連れ添ってきた。彼女はメキシコから不法にやってきたトランスジェンダー女性で、クラウディアと言う。アメリカでもトランスジェンダーに対する風当たりはまだ強いけれど、メキシコでは命の危険にさらされる。彼女は自分の命を守るためにアメリカにやってきた。アメリカでも最低の暮らししかできなかったけれど、そこで生き抜いてきた。彼女たちはお互いの命を守るために仲間とともに結束している。それでも危険にさらされる事は多いようで、理由もなく銃で頭を撃ち抜かれた友達もいた。エイズで若くして亡くなる人たちも多い。彼女は結婚式などの慶事よりも、葬式に出席している事の方が多い。連れの父と彼女は晴れて2015年に結婚した。戻る事の無いメキシコに家族のために家を建て、何の感謝も伝えない彼女の家族。それでも彼女は生きている事に感謝して、病に侵されたその体に鞭を打ちながら、生を全うしている。底にいた事のある彼女だから、自分の家族を蔑ろにできないのだと思う。私を受け入れてくれ、子供達にも優しくて、絶対におばあちゃんとは呼ばせない。そういう幸せ、何でもない幸せ、という日常が全ての人に平等に存在するべきだ。結婚する権利、しない権利、子供を持つ権利、持たない権利、第三の性を選ぶ権利、男性女性を選ぶ権利、心や性別が違えども同じ人間なのだから、そもそも区切られるべきではないのだ。
ヴィクトリアの調査の道のりは険しかった。彼女は男性の体をもって生まれたけれどずっと女性として生きてきた。しかしまだそういう権利がなく犯罪になってしまう世の中だったので、彼女は自分の素性を隠して生きていかなければならなかった。しかし運が良いことに彼女はもともと小柄で華奢だったのでうまく隠し通せ、モデルやショーの仕事をしていたのだけれど、仲間に体が男性ということがばれてしまい職を失った。裁縫師だった彼女の母親は早い段階から彼女の個性を認め、何も否定する事なく接してくれたのも精神的にかなり支えになっていたのだと思う。その後看護師という職に就き人を助ける事が生きがいになっていた。しかしある日起きた悲劇。何と職場の同僚たち三人が彼女に対して性的嫌がらせや、暴力によるハラスメントをしてきたのだった。正にヘイトクライムである。怒りを抑えられなかった彼女は、ナイフを握りしめ同僚たちを殺そうと思い立った。しかしふと今まで気に掛けてくれた母の顔が頭に浮かんだ。それで彼女は過ちを犯さずに済み、そしてその苦しみをばねにLGBTQに対しての暴力に反する活動を行うようになった。そして、みんなの母親のようなLGBTQ界のローザ・パークス事マーシャの死の謎。彼女の死に正義をもたらしたいと思った。有名人がある日突然死んだりこの世から姿を消し、謎を残したまま闇に葬られる、ということはこの世の中には結構多く存在する。しかしその世界の闇を暴こうとすると今度は自身にも危険が及ぶことがある。まだこの世界の大半はコネで成り立っているし、闇と光が手を組んでいるし、本当に怖いのは正義を名乗っている人たちの場合もある。理不尽なのだ。そして、そういう連中は金が大好きだ。
まずヴィクトリアはマーシャについてのファイルを引っ張り出してきて、検死報告書を取り寄せる事から始めた。それには家族の同意が必要で、彼女は身体的にかなり負担があるにもかかわらず、マーシャの家族に同意を求めに行った。マーシャの家族はまだ彼女の事を彼、と呼ぶけれど、理解はしているようだった。甥っ子は小さい頃マーシャの事をマーシャおじさんと呼んでいたそうだ。
マーシャの遺体を見たかった叔母は、反対されてみる事が出来なかったと言っていた。しっかりとした検視結果を見たものは誰もいないようだった。家族が死ぬ、ということは大きな衝撃を伴うし、たとえ死に疑問を持ったとしても色々な準備に追われ、真相を突き止める事が蔑ろになってしまうことはあり得る。そういう風に真相が闇に葬り去られた死は多く存在するかもしれない。検死報告書を申請したヴィクトリアは次に重要参考人に電話をかけて回った。担当した刑事や、事件に関わった人、何か知っていそうな人たちに話を聞いて回った。しかし思ったように事は進まず、探偵ごっこはやめろと忠告されたりもした。
そうしているうちにもまた他のヘイトクライムのニュースが舞い込んでくる。ゲイバーでいい感じになり、連れ帰ったトランスジェンダー女性が性転換者であった為、殺された。言い訳にしか聞こえない加害者の言い分は許しがたいけれど、こういう事件はすぐに忘れ去られてしまい、同じことが繰り返され犠牲者は増えるばかりだ。他人事。無関心。自分はそうはならないという変な思い込み。死んだ人間は帰って来ない。殺した人間は生き続ける。ひょっとしたら同じ過ちをまた繰り返すかもしれない。そして、マーシャの事を解決できなければ、ほかの事件もすべて解決できないし、公正な裁判は望めない。
マーシャのような名の知れた人間でさえこういう扱いである。名のないようなちっぽけな人間の死なんて、すぐに忘れ去られてしまう。殺した人間もそう。何人殺そうが、次の瞬間にはまた別の事件が起こる。誰が誰を殺したなんて誰も興味ない。ましてや、何でそんな事をしたのか本当の理由を知ろうとする人間なんてどこにもいない。
ヴィクトリアと同じように、マーシャの事を忘れられず思い続けていた人間の一人、シルヴィア・リベラは随分とマーシャよりも年下だったけれど、ストーンウォールよりも前からトランスジェンダーの子供や若者たちを助けていた。ストーンウォールの暴動の次の日からLGBTQのムーブメントがはじまり、パレードが行われたのだが、そのパレードで暴動の中心に立っていたはずのシルヴィアが演説を始めた途端、仲間であるはずのゲイやレズビアンがブーイングしたのだ。魂の叫び声がボロボロに打ちのめされるさまは何度見てもつらい。LGBTQの中でさえ、トランスジェンダーや異性装、ストリートキッズは当時受け入れられていない存在だったのだ。それは今も大して変わってはおらず、あんなに同性婚合法化を求めて裁判所の前で戦っていたゲイやレズビアンの人間達は、それが合法になってしまうとみな消えてしまった。トランスジェンダーの殺害裁判に足を運ぶものは少ない。
暴動の後、マーシャとシルヴィアはSTARハウスという、ストリートで暮らすトランスジェンダーたちの為に住む場所を提供し始めた。トランスジェンダーの子供達は家出してくる子供達よりも、家族から追い出される子達の方が多く、そういう子たちは最終的に行き場所を無くし、セックスワーカーとしてストリートに立つことを余儀なくされる。ストリートに立つ者の多くは未成年か、これまた行き場をなくし路頭に迷う、年配のトランスジェンダーだ。そういう子たちが少しでも安心できるようにと、彼女たちは出来る限りの事をした。シルヴィアも両親が幼い頃にいなくなり、育ててくれた祖母に認めてもらう事が出来ず、10歳で路上生活と売春を始めた。そこでマーシャと出会ったのだ。路上では本来人間を守るべき警官でさえ、トランスジェンダー達にとっては危険な存在だった。リポートされているトランスジェンダーへ対しての暴力の12パーセントから18パーセントが、何と警官によるものなのだ。
マーシャが死んだあとシルヴィアはハドソン川で自殺しようと試みた。しかし未遂に終わり、川のほとりで生活を始めた。掘っ立て小屋を建て立ち退きの危機にさらされた。そこで彼女はSTARハウスに戻り、少しずつだがまた活動を再開させていった。2002年に肝臓ガンで亡くなるまで彼女はアグレッシブに権利を求めた。
「ラベル付けされるのは、嫌。トランスジェンダーってラベルも嫌。ラベル付けされて生きていく事にうんざりしてる。私はただ私でありたいの。私はシルヴィア・リベラ。レイ・リベラは10歳の時に家を出て、シルヴィアになったの。そして、それが私という人間なの」
最後まで、彼女は人間である、という権利のために戦ったのだと思う。
のんびりとして優しいマーシャと、抑えきれない怒りや強さのあるシルヴィア。正反対の二人だけれど、対のようにお互いを必要とし戦ってきた。
マーシャのルームメイトであったランディは、彼の養子である息子がストリートで暮らすマーシャの事を心配して、家に招き入れた時から12年もの間一緒に暮らした。ランディはゲイパレードの運営に疑問を持っていた。ストーンウォールはもともとマフィアの経営するバーだったし、ゲイパレードの運営もマフィアが絡んでいて、その収益の殆どはマフィアの取り分だった。それを探し当てたランディは周りの人間に反対されるも、活動を始めた。それに関わったマーシャもマフィアに目を付けられる事となった。しかし、なぜ主に活動をしていたランディが殺されず、マーシャが殺されてしまったのか?そこでビクトリアは過去の通話記録を調べ始めた。残っていた伝言メモに興味深い書き込みがあった。マーシャが死んだあと、ランディ宛に脅迫の電話があり、これ以上ゲイパレードの事に関わると、マーシャが死んだようにランディもハドソン川に浮かぶだろう、というものだ。その伝言はランディには結局伝わっておらず、その事実を知ったランディは罪悪感や押し寄せてくる思いに声を失った。
「マーシャは危険な目に遭っていたのにもかかわらず、いつもストリートに繰り出して、僕は安全な家でのこのこと過ごしてた」
その日キティーはマーシャとストリートをうろうろし、その後別れ、落ち合う約束をした。しかし落ち合う時間になってもマーシャが現れなかった。仕方なくうろうろしていると仲間から、不審な車がうろついているから乗らないようにと忠告された。あろうことか、その車にマーシャが乗るのを目撃した人がいたのだ。そして7月5日の夜、二人の男に追われ、ハドソン川の方向に走っていくマーシャを目撃した人間もいた。その記録がビクトリアの手元に残っているにもかかわらず、警察ではマーシャのケースファイルが紛失しており、マーシャの目撃情報の記録さえなかった。ずさんというか、出来過ぎた感がある。
ビクトリアの元に届けられたマーシャの検死報告書には、自殺、水死、殺人の可能性あり、とちゃんと書かれていた。それにも関わらず、捜査はされなかったのである。そしてマーシャの検死写真。それを知り合いの探偵に見せ、意見を伺った。人間が何者かに追われ車の前に飛び出し死んだら、それは自殺ではなく、殺人だ。もしマーシャが何者かに追われ、誤ってハドソン川に落ちて死んでいたのなら、それは殺人になる。マーシャの遺体は損傷が激しいけれど、それは高い温度の水の中で遺体はかき回されて、色んなものにぶつかって損傷してしまう、その速度も速かったと推測されるので、誰かに故意に受けた傷とは言いにくい。そしてそれを調べるとなるなら、金銭が発生します、という事だった。
ビクトリアは最後の望みをかけ、自分で調べた事をまとめて、FBIに提出した。
このドキュメンタリーは、マーシャやその他大勢のヘイトクライム・憎悪犯罪の犠牲になった人たちの権利・正義を訴える第一歩に過ぎない。しかし、マイノリティーの中でさえマイノリティーの人間がいる事を少しでも世間が知ることになるだろうし、権利権利と訴えているにもかかわらず、人間としての最低の権利さえ認められていない人間も存在している事実を知ってもらえるきっかけになるだろう。
理想の世界、それは誰もが権利を訴えずとも平等に認められていて、人間である、そんな世界。
世界から憎しみが消える事はあり得ないけれど、安心して暮らせる世の中であってほしい。

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