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四六時中の刹那 (7)

ふーくんのお嫁さんはユキちゃんだ。ユキちゃんは六人兄弟の長女でおばあちゃんに育てられたから煮物とか焼き魚とかお漬物とかすごく上手で、その料理がふーくんの胃袋を掴んで離さなかったんだと思う。ふーくんは私の膝に足を乗せてユキちゃんに電話する。ユキちゃんはずっと私とふーくんが児童園にいた時から友達だ。ふーくんは私のお兄ちゃんみたいでお兄ちゃんじゃなかった。本当のお兄ちゃんは妹をかわいがらない事はよく知っていたから。ふーくんが結婚するって言った時少しだけ動揺したけれど相手がユキちゃんだったから仕方ないなと思った。ユキちゃんはふーくんと家族になった。私は相変わらず一人ぽっちなのですごくつらい時があってそんな時は狂言自殺してふーくんに来てもらう。ふーくんはいつまでたってもそんな私を突き放さない。ユキちゃんも笑って心配してくれる。それがずっと本当はつらくてどうしたらいいのって思う。私も二人の家族になりたかったなあ。


***

私の中の屈折は
水は案外
光を伝達するのに優れていると
しらを切るのです
水の中では
光が絆のように 手をつなぎ
次へ次へと 旅をするのです
夜霧の中で 月の光の眩しさに
目を叩かれたとき
無限に広がる 光のベールを 見て
私は ふとそんな関りに
衝撃を受け 空中に広がる
蒸気に姿を変えた 水たちが
あの優しい光を ずっと
遠く遠くへと 運んでいるのだなと
嬉しくなったのです

***


ジリちゃんはダニエルを愛してる。私はジリちゃんにぞっこんだ。ダニエルとジリちゃんは両想いってやつで、私の入り込む余地なんてない。ジリちゃんの柔らかい腕がダニエルに絡みつくと心臓がずきりと痛む。私は一体このままジリちゃんとどうなりたいんだろう?ジリちゃんはそれがどれほど私を苦しめるかも知らずに、私に触れる。触れられるとすごくドキドキして、私はそれがジリちゃんにばれちゃいやしないかと気が気でない。ジリちゃんがダニエルと何食わぬ顔して見つめ合い抱擁する時、私はいらぬやきもちを焼く。ジリちゃんが私の心配をして男を物色するとき、この世の終わりのようなため息が喉の奥でつっかえる。私のそんな心には目もくれずに、ジリちゃんはダニエルとの痴話喧嘩の相談を吹っかけてくる。別れちゃいなよと毎回言っては見るけれど、結局ジリちゃんは飼いならされた小鳥のようにダニエルの元へ戻っていく。ジリちゃんの瞳は甘く私を酔わせ惑わせ、くちびるが発する言葉は私を締め上げる。幾らつらくてもこの場所は私の特等席だから、私は従順な子犬みたいにそこにいる。きちんとお座りをしてしっぽをぶんぶん振って、そっぽ向いてまってる。ジリちゃんはダニエルを愛してる。私はいつまでもジリちゃんを愛してる。


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時間が経つのが遅い。それはちょうどあの時と同じようで少しだけ違った。おっさんは俺の首を絞めてきた。それがどんな事なのかは解っていたつもりだったけど、いざそこに放り出されてみると一過性の興味だけだった自分の過ちにすごく後悔した。おっさんは俺の顔を真っ直ぐ見てにやけた。それがちっとも気持ちよくねーんだ。あの時は凄くよかったはずなのに、この名も知らぬおっさんがいけねーんだ。おい、おっさん、それ以上絞めるな。そうもがきながら声にならない声を喚いていた。おっさんはそれをいかがわしい笑みを浮かべながら楽しんでやがるんだ。俺はなけなしの望みをかけて目を閉じた。あいつがそこにいる事を想像してみようとしたんだ。でも駄目だったみたいで、目が覚めると真っ裸で空の浴槽の中に放置されていた。おっさん、残念だったな。俺は死んでなかったから、今夜にでもあいつの所へ戻ってみるよ。

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私は人間に触られるのが苦手だ。例えばどれくらい苦手かというと、母親に抱きしめられる事さえ苦痛なのだ。しかし例外も存在して、小さな頃父親から抱きしめられたり抱っこされるのは心地よかった。結婚したまーくんに抱きしめられるのも苦ではなかった。そしてもう一人、まーくんの友達でアメリカ育ちのダイくんだ。ダイくんは仲良くなったらだれ彼構わずお別れ時にハグをする。ダイくんのお父さんがアメリカ人だから、きっとアメリカに住む日本人よりもアメリカ方式で育ったのだろう。初めてハグされた時少し驚いたけれど、もっと驚いたことはそのハグがすごく心地よかった事だ。人から触られる事が苦痛でしかない私が心地よいと感じるその人間に特別な感情を抱くつもりはなかった。しかしまーくんがダイくんを家に連れてくるたびに私はダイくんとハグをして、またね、と言う。いつしかそのハグを求めるように欲していた。いっそならずっとぬいぐるみのように抱きしめていたかった。恋とは違うと思う。でもダイくんのハグが好きでたまらなかった。


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ままが、ねこをすててきなさいといったから、わたしはじぶんをすてました。
ままはみるくがきらいなので、わたしはまいあさこーひーぎゅうにゅうをのみます。
ぱぱは、なっちゃんといっしょにしにました。
ままはおぶつだんにみっつ、おまんじゅうをおそなえします。
きのうわたしはわるいこだったので、ごはんをたべれませんでした。
ほしがちかちかとしているので、わたしはさむくてもへいきでした。
でもねこは、ままもいなくてかわいそう。
おそなえものはもうだいぶまえのものだったから、ちょっとかびててまずかった。
でもおなかがすいたから、ままがどこかにいってるあいだにたべたの。
まま、あしたにはかえってくるかな?
おなかへったよ。

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包丁を持って男は私を見下ろした。私はああ、嫌な最後だな、と思った。一瞬の迷いと竦みで私は逃げ惑う人間達から取り残されそこに留まってしまった。一寸先に血まみれの物体が動かないまま寝っ転がってる。あれは死んだのか?私もあれになるのか?この男は、私の何を知っているというんだ?こいつは何でここにいて凶器と固有の怒りを見ず知らずの私という物体に向けているのだ?ふざけすぎだよ。ああ、いたたまれねえ。


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お客さんとメールのやり取りをすることが苦手なので、私はいつも最下位だ。新人の意識高めな子たちからもすぐに追い越されて、先輩や同僚たちからも呆れられて、いじめみたいな激励を受ける。営業メールとか、時間の無駄だしそもそもあからさま過ぎて私だったらそんなものに乗ったりすることはないと思うから、気が引ける。何でこの仕事してるの、辞めればいいのにっていう子もいる。でも私は人の話を聞いて違う世界の事を知ることが大好きなのだ。それだけの為にやっている。それだけの為に通ってくれる人間達もたまにいる。そういう人たちは大体二種類いて、自分の興味のあることをずっと喋っている人たちと、人の人生に余計な心配してお節介に説教してくる人たちだ。ここでお金を貯めて将来はセラピストにでもなるかな、なんて考えている。


***

死んだように眠った後は決まって離人になった。魂が半分夢の中で溺れている感覚。さちこが死んだあと僕は随分眠ってしまったようで、起きた時にはもう涙は枯れていて喉もカラカラで、体中がひどく痛んだ。手を伸ばしてもそこにさちこはいなかった。さちこは忽然と姿を消したように僕の数日は空白だった。ここでは何もかもが透明で、そして半透明だ。さちこの半透明の笑顔がふわりと消えた気がした。その細い体をもう一度抱きしめておけばよかったと実体のない空中に漂う半透明を虚しく掴もうとした。

さちこぉ…

結局枯れたと思った涙がふたたびあふれ出し、僕は冷たい床に突っ伏して泣き始めた。


***

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